競技を含む「人生」視点で考える。大学生でフェンシング日本代表・飯村一輝が語る、Z世代アスリート観
15歳で日本代表に初選出され、日本フェンシング界の次代を担う20歳は、文武両道で自らの人生を切り拓いてきた。現役大学生でもある飯村一輝さんの生き方から、Z世代アスリートのキャリア観を探る。
二人の選手が対峙し、剣を互いの身体に突いて勝敗を決める「フェンシング」。国内では2008年頃を皮切りに、世界大会での日本代表の躍進が目立っている。
そんな日本フェンシング界で、次世代を担うエースとして期待されるのが、2003年生まれの飯村一輝(いいむら・かずき)さん。元フェンシング選手として知られる太田雄貴氏のコーチだった父の影響で競技を始め、小柄ながら、俊敏さを生かして相手の懐に入り込むスタイルで、海外選手と渡り合っている。
競技に真摯に向き合いながらも、セカンドキャリアを見据えて、一般枠で大学へ進学。文武両道のアスリートを目指す飯村さんは、どのように人生の舵を取ってきたのだろうか。そして、世界の大舞台を経験するなかで、緊張を「楽しみ」に変えられた思考法とは――。
一本の“ジュース”で始まったフェンシング人生
― はじめに、飯村さんがフェンシングを始めたきっかけを教えてください。
フェンシング選手・太田雄貴さんのコーチをしていた父の影響で、幼い頃からフェンシングは身近な存在でした。幼稚園生の頃から、練習場や試合会場に連れていかれていたくらい。ただフェンシングって痛そうだし、危なそうだし、しんどそうだし……正直なところあまりやりたくなかったんです(笑)。
でも、小学1年生のとき、よく行っていた体育館の自動販売機に、僕の好きなジュースが並んでいて。父に「これ買ってあげるから」と言われて、それに釣られて剣を握ったのが始めたきっかけでした。
― 意外なきっかけですね。実際にやってみて、フェンシングに対する印象は変わったのでしょうか?
うーん、今でも痛いのは苦手ですね(笑)。フェンシングを始めた頃、構えている前の脚に相手の剣が刺さって、服の上から見えるくらい出血したことがあって。すごく痛かったし、トラウマになりかけました。
それに、当時の僕はあまり練習熱心なタイプではありませんでした。「試合に勝つのはうれしいけれど、練習には行きたくない」などと駄々をこねて、練習に行く直前にお腹が痛くなったり、車で移動して練習場所についてもずっと寝たふりをしたり……あの手この手でサボろうとしていました。
― 飯村さんは、小学4年生のときに京都府のジュニア選手の育成プロジェクトに合格しています。その頃からはフェンシング漬けの生活を?
いえ、小学校高学年の頃からは受験を見据えて塾に通っていたので、勉強とフェンシングを共存させる日々を送っていました。目指していた中学校に入るには、それなりに高い学力が必要だと言われていたので、平日の通学に加えて、土日は昼から午後6時まで塾に通って、そこから21時までフェンシングの練習をして、帰宅したら塾の宿題をするような生活でした。
父がフェンシング一筋だった一方、母は勉強に関してものすごく厳しかった(笑)。その結果希望する中学に入学でき、文武両道の姿勢が身についたので母に感謝していますが、当時は鬼のようなスケジュールでしたね。今振り返ってみると、小学校の後半3年間がこれまでの人生で一番忙しかったんじゃないかと思うくらいです。
日本代表と成績上位を両立「負けず嫌いというより、勝つのが好き」
― フェンシングを始めたのは小学1年生とのことでしたが、この世界で生きていく、トップを目指すという自負が芽生えたのはどのようなタイミングだったのでしょう?
小学6年生のとき、初めての海外遠征でオーストラリアの大会に出場した時のことです。そこで同世代のトップレベルの選手たちと戦って、優勝して「世界で勝つってこんなに楽しいんだ」と気づいたことが一つのきっかけでした。
僕は試合で成長するタイプだったこともあり、多くの試合を重ねることで国内ランキングが上がっていき、中学2年生でジュニアワールドカップに出場できました。そこでベスト16に入り、さらにランキングが上がったことで、その年のカデ部門(16歳以下)の日本代表に選ばれて、海外を転戦するようになったんです。
その頃から周りの友達がスマホを持ち始めていたんですよね。自分にも買って欲しいと親に頼みこんだところ、父に「世界カデ(選手権)に出場できたら買ってあげる」と言われて。どうしてもスマホが欲しくて、なりふり構わず頑張って、なんとか日本代表として出場することができました。そして念願のスマホをゲット。僕は目の前に分かりやすいごほうびがあると、飛び込めるタイプなのかもしれないです(笑)。
― 中学生の頃から海外を飛び回っていたそうですが、文武両道の姿勢が身についていたとはいえ学校の勉強との両立は大変だったのではないでしょうか。
そうですね。中学3年の時点ですでにU-20の代表でもあって、なおかつシニアの試合にも出ていたんです。本来ならカデの区分なのにジュニア、シニアまで回っていたので、シーズン中は数週間単位で公欠を取ることもありました。
学校が活動を応援してくれる分、僕もテストはちゃんと頑張ろうと思って。遠征先の飛行機や新幹線の中でもずっと勉強していました。小学生の頃からフェンシングと勉強の両立というマネジメントはできていたので、あまり苦ではありませんでした。学年順位では1位を取ったこともあるし、大体上位5人には入っていたと思います。
先生に「公欠してるのにこんな成績取れるなら、俺、いらんやん」って言われたり、友人たちに「お前、いつ勉強してんねん!」って驚かれたりするのもけっこう楽しくて(笑)。フェンシングに限らず、僕は負けず嫌いというより、勝つのが好きなんですよね。
― フェンシングでは、小柄な体格を生かして相手の懐に瞬時に潜り込むスタイルで、海外のトップレベルの選手たちと渡り合ってきました。身長が高く、リーチが長い選手のほうが有利とされる競技で、飯村さんはどのように自分の強みを磨いてきたのでしょう。
今でも明確に覚えているのですが、小学4年の全国大会の準決勝で、今はサーブル(フェンシングの種目のひとつ)で活躍している同級生の坪 颯登(つぼ・はやと)さんと対戦したんです。当時、僕の身長は130センチ。一方、彼はすでに160センチを越えていました。
普通に戦ったら、30センチの差を崩すことはできない。そこで相手の剣をバチバチ叩き、自分の間合いに入らせないようにして、エンドラインまで押してスピードで差しにいくというプレースタイルを思いついたんです。父が元々、駆け引きとスピードを中心に組み立てていくスタイルだったので、その素質はあったと思いますが、花開いたのはあの試合でした。
僕自身は、自分が小柄なことをネガティブに捉えていません。体格の大きい海外選手からすると、30センチ下でちょこまかと動かれるとやりにくいんですよね。この身長だからスピードを生かして戦えている。周りには「大変そう」と思われがちですが、距離さえ上手くコントロールして、こちらでタイミングを見計らって打たせるという戦い方を攻略すれば、世界でも通用すると考えています。
わずかでも可能性があるなら、自分を信じる理由になる
― 飯村さんは中学生の頃から世界カデ選手権などの大舞台を経験してきました。海外遠征を重ねる中で、フェンシングとの向き合い方や自身のマインドに変化はありましたか。
一番大きな影響を受けたのはフランスでの試合です。フランスはフェンシング発祥の地なので、国民にとっても身近な競技であり、観客席の皆さんも応援にすごく熱が入っている。そこで「こんなにたくさんの人に応援してもらえる試合って楽しいな」と気づいて、見られると強いタイプになりました。
毎年1月、フランスでCIPワールドカップがあるのですが、観客席は満員で、試合会場の迫力やスケールも日本や他の国と比べて桁違いなんです。そうした経験を早くから積めたことで、注目される試合や土壇場に強いとか、緊張を楽しめるマインドが持てているのかなと思います。
― 元々、プレッシャーに強いタイプだったのでしょうか。
いえ、そんなことはなくて。最初は緊張していたし、圧倒されて実力が発揮できないこともありました。でも、いつからか緊張の捉え方が変わったんですよね。
緊張って、目の前の試合に勝てるか不安なときに起きるものだと思うんです。でも、それは裏を返すと、心のどこかで「勝てるかも」と期待しているから起こるものなのかなと。
そして、「勝てるかも」と思っているということは「自分の可能性を信じている自分」がいるということ。そう気づいた時、緊張する瞬間を逆に楽しめるようになりました。
緊張すればするほど、自分の可能性を強く感じているとも言えるから。勝負に絶対はないからこそ、わずかでも自分に可能性を感じているのなら、自分を信じる理由になると思っています。
― 「緊張は、無意識に自分に期待しているから」という考え方にはハッとさせられました。ただ、アスリートは周囲からの期待をプレッシャーに感じる場面も多いように思います。
アスリートに限らず、人から受け取った言葉をプレッシャーに変換して、気負ってしまう人って多いと思うんですよね。周りに「応援しています」って言われたのを、「周りの人は自分に期待している」に変換してしまうと、その期待に応えなきゃと空回りしてしまう。
だから、僕は「応援してくれてるんだ!ありがとう!」と応援をそのままの意味で素直に受け取って、パワーにするようにしています。基本的に楽観的な思考なんですかね。フェンシングも勉強も、「きっとどうにかなるわ」と思ってやってきました。
競技の「外」でも出会いの幅を広げたい
― 飯村さんはフェンシングで忙しい学生生活を送りながらも、慶應義塾大学総合政策学部に進学されています。スポーツ推薦や体育系学部などではなく、今の進路を選んだのはなぜでしょう。
競技以外の場面での出会いの機会を広げたかったんです。幼い頃から競技の世界に身を置いていると、同世代の人たちが経験していそうな社会との接点が少ないんですよね。競技を通じて多くの経験をしてはいるものの、例えばアルバイト先で仲間と一緒に働くとか、そういった経験が僕にはない。
セカンドキャリアなども見据える意味も含めて「人生の幅を広げたい」と考えたときに、多方面で活躍している学生や卒業生とも交流したいなと思って。実際に通ってみると、アントレプレナー志向の学生も多かったりして、色々と学びが深いんですよね。
― 引退してから、セカンドキャリアを見据える重要性に気づくアスリートも少なくありません。なぜそんなに早い時期から引退後を含めた将来を考えられたのでしょう。
僕の中では、太田さんがロールモデル的な存在になっているのかもしれません。太田さんはフェンシングを引退した後も、競技以外のさまざまな分野でキャリアを確立しています。そうした存在が身近にいたのもあり、早めにセカンドキャリアを考えるようになりました。
また、中高の同級生たちとキャリアの話をする機会があって。彼らは、アスリートの僕とは全然ちがうルートでそれぞれの人生を歩んでいるんですよね。自分の将来のためにも、学生のうちから視野を広げておいたほうがいいなと思いました。
― これからも活躍が楽しみですが、今後の展望について教えてください。
僕にとっては、オリンピックの個人種目で金メダルを手にすることが最大の目標です。それを達成できたら、新たに別のことにもチャレンジしてみるのも面白そうかなと思っています。
先ほどお話した緊張との付き合い方もそうですし、アスリートは日々自分でPDCAサイクルを回しているので、僕のこれまでの経験は企業や社会で生かせることも多いと思うんです。フェンシングを通して学んできたことを、その先のキャリアにも繋げていけたらいいなと考えています。
また、日本でフェンシングが注目されている今こそ、その魅力をもっと伝えてフェンシング界を盛り上げていきたいとも思っています。そのためにも、SNSで自分の素顔や競技の面白さを発信したり、子どもたちにフェンシングを教えたりといった活動をこれからも続けていきたい。
映像と実際の試合を見るのとではまったく迫力が違うので、興味を持った方はぜひ試合開場に足を運んでみてください。
プロフィール/敬称略
※プロフィールは取材当時のものです
- 飯村一輝(いいむら・かずき)
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2003年生まれ、京都府出身。 龍谷大学付属平安高等学校卒業、慶應義塾大学 総合政策学部在学。フェンシング指導者の父・栄彦氏の影響を受け、小学1年生で本格的にフェンシングを開始。小中高でそれぞれ全国大会を制す。 15歳で日本代表にはじめて選出され、高校在学中は、全日本選手権で2年連続で3位、2022年世界ジュニア選手権1位、同年シニアワールドカップセルビア大会3位、2022年より日本代表団体メンバーに選出。2023年世界選手権1位。 2024年パリ2024オリンピック個人4位、団体1位獲得。