ケトル・嶋浩一郎が語る「平成とは多様性と同調圧力が混在する奇妙な社会」
新しい元号が現在を相対化するとき“平成的思考”が見えてくる
平成という時代の終わりを目前にひかえた今、私たちは何を思い、考えるべきか――。デジタルテクノロジーの劇的な進展、経済の低迷や大規模災害など、変転著しい30年が私たちにもたらしたものを振り返るとき、そこにはさまざまな思考のタネや次代へのアイデアが見つかるに違いない。"平成的思考"から脱却し、新時代を生き抜くための来たるべき未来を予測していく。
平成の総括とネクストステージへの展望について、博報堂ケトル共同CEOの嶋浩一郎さんに話を伺った。「本屋大賞」の創設や本屋B&Bの運営など、数々のヒット企画を世に送り出してきた、平成を代表するクリエイティブディレクターが「平成の特異性」を語る。
集合知とコスパ重視の時代
― 嶋さんにとって、平成とはどのような時代でしたか?
すごくベタですけど、ひとことで言えば「インターネットの時代」だったという印象があります。いままでつながらなかった人と人、人とモノが結びついた時代。最近は特に「集合知野郎」が増えたなと。
― すごくキャッチーなワードが飛び出しましたね(笑)。「集合知野郎」について詳しく教えてください。
以前、ハードな研修を終えた新入社員のねぎらいにと思って、若い子たちを誘って飲みに行こうとしたんです。「俺の好きな店に行くぞ」と言ったら、そのなかのひとりがその場でググって「嶋さんが今から行こうとしてる店の評価、低いんですけど大丈夫ですか?」と返してきたんですよ(笑)。つまり彼らは、顔も名前も知っている目の前の人間の価値観よりも、不特定多数による「集合知」のほうにリアリティや信憑性を感じているんですよね。
また平成という時代は、生活を楽しむことと「コスパ意識」が分かち難く結びついた時代だと言えるんじゃないでしょうか。食べること、映画を観ること、服のセレクトにいたるまで、あらゆるところで「損をしたくない」「ムダなことはしたくない」という意識が広がった気がします。衝撃的だったのは、いまの高校生の音楽に対する意識を知ったときですね。彼らは音楽に対して「使える/使えない」という形容詞を使うんですよ。カラオケで盛り上がると「この曲、使える!」という表現をするんです。この言語感覚は昭和に育った自分には無いものだなと驚いた記憶があります。
「インターネットによってあらゆる情報が均質的したいま、コスパに価値を見出しているのでは」
本屋に来るお客さんも、「泣ける本」「アイデアが出る本」みたいな効果や効能を求めて本を探す人が増えました。これは、広告をやってきた自分自身も深く反省するところでもありますが、効果効能を謳い文句にしたコンテンツが世の中には溢れています。ある意味、コスパを重視するという平成的消費スタイルは、こうしたコンテンツマーケティングの状況が生み出したとも言えるかもしれませんね。
矛盾した価値観が同居する違和感
― コストパフォーマンスを全方位的に重視する価値観を、仮に「平成的」と形容するとき、逆にどのような価値観が「昭和的」だと思いますか?
本にせよ、音楽にせよ、コンテンツってピンからキリまでいろいろあるし、そこで得られた経験がいつどこで役に立つかなんてわからない。これが僕たち昭和に生まれた世代の「常識」です。むしろ、役に立たないものこそ大切にしていたふしさえあります。それが今ではかなり変わりました。およそすべてのコンテンツが役に立つか、立たないかという価値観のもとに消費されていくわけです。良いか悪いかはひとまず置くとして、これってすごいことですよ。
ムダや余白をどんどん切り捨てていって、正解まで一直線にたどり着きたい。時短的というか、答えをすぐに欲しがる。昭和の時代、そういう考え方は必ずしもメジャーではなかったと思います。それがここ30年のあいだに一気に世の中の「空気」にまでなってしまった。そう考えると、日本人に起きた変化は結構大きいのかもしれませんね。
― 冒頭に「平成はインターネットの時代」というお話がありましたが、時短的な意識や答えをすぐに欲しがる風潮はインターネットの普及と関係があると思われますか?
相関はしているでしょうね。一直線に答えを求める感覚は、インターネットにおける情報摂取の感覚とよく似ています。「使える」情報を「時間を損することなく」摂取する。たしかにコスパは良いのかもしれませんが、そういう感覚でコンテンツを消費するのって楽しいのかな? と思ったりもします。例えば、ドストエフスキーの小説を読んで、ためになるかならないかなんてわからない。でも、そういう曖昧さというか、一見「ムダ」かもしれない物事に接することで得られる、思いがけないおもしろさみたいなものってあるわけで。コスパを追求しすぎると、そういう類のおもしろさには出会えない。それは少し残念な気もしますね。
ケトルが編集する雑誌『ケトル』。キャッチコピーは「最高の無駄が詰まったワンテーママガジン」
インターネットといえば、議論が二項対立になりがちなのも特徴的です。昨年、一橋大の松井剛教授と共著で『欲望する「ことば」「社会記号」とマーケティング』という本を出しました。「草食男子」「女子力」「おひとりさま」のような、辞書に載っていない言葉が社会に定着していくメカニズムについて解説した本です。そのなかでも書いているのですが、1980年代から90年代にかけては、雑誌が「コギャル」や「コマダム」を新しい価値観を持ったトライブとして承認していくという流れがありました。しかし最近は、インターネット上に登場した「リア充/非リア充」「肉食/草食」のように、集団を二分化する社会記号が増えていますよね。これもある意味で、答えをすぐに欲しがる風潮と相通ずるものがあると思います。
多様化という言葉が市民権を得る一方で、所属カテゴリ内での同調圧力も強力に働いています。そういう矛盾というか、せめぎ合いが起きているなと日々感じますね。一昔前は「インターネットによってより多様な価値観が生まれてくるはずだ」と言われていました。でも蓋を開けてみると、わかりすい二項対立に思考を支配されたり、ユーザーにとって心地いい情報だけが展開されるいわゆるフィルターバブルによって、一定の価値観を強固なものにしたりしている。結果として同調圧力が生じて、思考や価値観は一定方向にディレクションされてしまいがちです。多様化もインターネットも80年代に生まれ、90年代に普及したものです。平成という時代は、本質的に相容れないものと同時に付き合うという、矛盾した態度を強いられた時代だった気がしています。
ムダという価値の再発見
― 相容れないものと同時に付き合うという意味では、平成生まれの価値観をどのように受け止められましたか?
最近、とあるWebメディアから「大学生はいま何をするべきか」というテーマでインタビューを受けました。この質問には、まず「大学生は在学中に何かをしなければいけない」という前提があるわけですよね。同時に、その「何か」は近い将来役に立つ「何か」であることも前提になっている。すでに価値があると分かっているものに、あえて飛びつかなくてもいいんですよ。ですから、僕は「大学生のうちは一見『ムダ』に思えるようなことをしよう」って答えておきました。でも話はこれで終わらなくて、後日談が。そのインタビュー記事が公開されて、ある大学生からレスポンスが来たんですね。彼曰く「時代は変わったので、悠長にムダなことなんてやってられないんです」と。「いや、わかる...! わかるけど、でもな...!」って心の中で思ったりして(笑)。
未知のものに触れるという経験が、最近とにかく少なくなっているんじゃないでしょうか。僕なんかは食べにいったお店がマズくても「それはそれでいいじゃん」って思うのですが、そういう価値観もいまは少数派でしょう。口コミサイトしかり、昨今すべてのコンテンツは数値化されて、相対的に評価されている。もちろん、その風潮を否定するつもりは全くありません。
むしろ、判断のための物差しがひとつ増えたという意味では、おもしろい現象だと思います。自分の嗅覚、知り合いの食通、グルメ雑誌みたいな判断材料のなかにインターネット上の集合知が加わったと考えれば、ある意味それは豊かなことです。
― 来年、平成から新しい元号に変わるわけですが、平成という時代に生まれた価値観や「流れ」といったものは今後どうなっていくと思われますか?
希望的観測を含んだ見解ではありますが、ムダがもう一度見直される時代が来るんじゃないでしょうか。イノベーションはムダからしか生まれないと言われますよね。つまり、不純物や余剰も含んだ雑多な状況のなかから、それまで誰も思いつかなかった物事の組み合わせを発見するのがイノベーションです。だとすると、いま忌避されているムダというものがむしろ必要になってくる。ムダと出会うことが重要視されるような、ある種の揺り戻しがあるような気がします。
― 「ムダと出会う」をキーワードに、廃れていたものが再度見直されるということでしょうか?
そうですね。例えばネット書店では、すでに顕在化している欲望を見つけることは簡単にできます。「〇〇が読みたい」と分かっていれば、検索したらすぐさま商品にたどり着ける。しかし、答えに最短距離でたどり着いてしまうため、文字通りそこには「ムダがない」。逆にリアルな本屋は、店内を歩けば欲しくない本も勝手に視界に入ってきます。偶然ムダな情報と出会う装置としては、後者の方が圧倒的に優秀です。でも、近い将来デジタル上でもこのそういうコトができるようになると予想しています。
ちなみに、僕自身も周りにムダがなくなってきているので、あえて「修行」するようにしています。これはあえて自分に興味の無い映画を見に行くことを「修行」と名付けて実践しているみうらじゅんさんにならったものです。
例えば、地下アイドルのライブや、アニメ映画の応援上映など普段の自分だったら行かない場に出かけてみるわけです。そこで、あるときディナーショーに行ったんです。誰もが知る有名人なんだけど、個人的に関心の外にある人。なので、とくに期待もせずに向かうわけですが、いざ行ってみるとちゃんとオチのついた話で会場を沸かしている。そんなところから芸能界で数十年生き抜いてきた重みを感じたりするんです。これが自分にとって何の役に立つのかはわかりませんが、今まで自分になかった「何か」を得ていることはわかる。こうしてムダとも思える「修行」を積み重ねていくと、インスピレーションの種になったり、ふといいアイデアが出たりするんですね。
同じようなことがインターネット上で行われる技術が開発されるかもしれません。アルゴリズムがつくりだす最適化された世界観だけで満足できていない人の欲望が、そういう技術として顕在化することも十分ありうると思います。ムダという価値の再発見というか、インターネット上でムダと出会うためのテクノロジーこそ、これから求められるんじゃないでしょうか。インターネットによって失われた感覚はあるけど、それが次代のテクノロジーによって再発見される未来があるといいですよね。
プロフィール/敬称略
- 嶋浩一郎(しま・こういちろう)
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博報堂ケトル代表取締役社長・共同CEO
クリエイティブディレクター編集者
1968年東京都生まれ。1993年博報堂入社。コーポレート・コミュニケーション局で企業のPR活動に携わる。01年朝日新聞社に出向。スターバックスコーヒーなどで販売された若者向け新聞「SEVEN」編集ディレクター。02年から04年に博報堂刊『広告』編集長を務める。2004年「本屋大賞」立ち上げに参画。現在NPO本屋大賞実行委員会理事。06年既存の手法にとらわれないコミュニケーションを実施する「博報堂ケトル」を設立。カルチャー誌『ケトル』の編集長、エリアニュースサイト「赤坂経済新聞」編集長などメディアコンテンツ制作にも積極的に関わる。2012年東京下北沢に内沼晋太郎との共同事業として本屋B&Bを開業。編著書に『CHILDLENS』(リトルモア)、『嶋浩一郎のアイデアのつくり方』(ディスカヴァー21)、『企画力』(翔泳社)、『このツイートは覚えておかなくちゃ。』(講談社)、『人が動く ものが売れる編集術 ブランド「メディア」のつくり方』(誠文堂新光社)がある。