世界が注目する小さな老舗「mita sneakers」の「協業をデザインする」姿勢

世界が注目する小さな老舗「mita sneakers」の「協業をデザインする」姿勢

文:紺谷 宏之 写真:池本 史彦

アメ横の小さなスニーカーショップ「mita sneakers」が、大手スニーカーブランドと肩を並べ、協業できる理由とは

ここ数年、世界でスニーカーブームが巻き起こっている。

スポーツブランドやコレクションブランドの定番モデルを代表格に、生産数の少ないブランド別注、過去のヒット作のリバイバル、アーティストとのコラボモデルなど、今やスニーカーは新時代を象徴するファッションのアイコンアイテムになった。

そんな状況下、日本国内はもとより、海外のスニーカーヘッズ(※ スニーカー好き)からも支持を集めるスニーカーショップがある。東京・上野にある「mita sneakers」だ。現在、世界中のさまざまなメーカーやブランドとのコラボモデルや別注モデルをリリースする同店は、1990年代後半からショップによるコラボレーションや別注を手がけてきた"先駆者"としても知られる。

その中心的な役割を担ってきたクリエイティブディレクターの国井栄之さんに、大手メーカーや有名ブランドと協業し、比類なきオリジリナルを作り上げていくための姿勢について聞いた。

「スニーカー」は、グローバルで時代を反映するプロダクトだった

― はじめに、仕事としてスニーカーを扱う面白さをお聞かせいただけますか?

最初に惹かれたのは、世界共通規格という点ですね。

例えば「AIR MAX 95」(NIKE)。僕が「mita sneakers」に入社した1年前の1995年に発売されたモデルですが、アメリカでもヨーロッパでも日本でも商品名は「AIR MAX」。サイズも統一規格で、縦寸のハーフ刻みだけ。このグローバルスタンダードな感覚に惹かれていたんだと思います。

また、僕が多感な時期を過ごした1990年代はクロスカルチャーの時代といわれ、さまざまな文化的背景が交差しあって総称としてのストリートカルチャーが形成されていきました。その根底には様々なサブカルチャーが存在し、そこの住人の足元には常にスニーカーが在った。

僕は幼少期に多大な影響を受けたサブカルチャーの共通項をスニーカーに見出し、ストリートカルチャーに付随していたアイテムのひとつから独自のカルチャーへと進化させる"新しい提案"ができるかもしれない、そんな気持ちがスニーカーを手掛ける後押しにはなりましたね。

― グローバルでありながら、国井さんが影響を受けた方々が愛するプロダクトだった、と。

加えて、感覚的にではありますが、ビジネスとしても可能性があるのではないかという印象は抱いていました。当時はスニーカーをリリースしていたスポーツブランドの数も、アパレルやその他のジャンルに比べて圧倒的に少なく、指で数えるほど。「市場に出回っているすべてのモデルを把握できる」とまでは言いませんが、過去にリリースしたモデルを含め、まだまだ可能性の幅は広かった。

同じモデルでも、色や素材が異なるだけでまったく違った印象になり、評価が大きく異なるというのも興味深かった。スニーカーに興味のない人からすると、例えば真っ白の靴と真っ赤な靴があって後者のほうが「価値がある」と言われても「何が?」と思うのは当然です。でも、発売した時期や時代背景、音楽やカルチャーとの結びつき方など、さまざまな要因によって、同じモデルであっても価値に差がでる。その意味でスニーカー史自体を深掘りすることで、新たな可能性が見いだせるだろうという予感もありました。

今では、明確に答えがない市場評価は、スニーカーを扱う面白さのひとつです。

名前を並べるのがコラボではない!寄り添いながら攻める「協業をデザインする」仕事術

― 1996年の入社から20年以上、スニーカーシーンの変遷を見続けてきた国井さんの目には、この20年はどのように映っているのでしょうか。

時代の変化に「mita sneakers」としての進化で対応してきた20年ですね。入社当時と現在を比べると、まず市場に流通しているスニーカーの種類や数が圧倒的に異なります。選択肢が増えたことで消費スタイルが多様化し、90年代にはサブカルチャーの領域だったスニーカーは、2000年代半ば以降になると次第にストリートの文化となり、2010年代に入るとSNSとの相性の良さから世界的なカルチャーへと発展していきました。

今でこそスニーカーショップは街のいたる所にありますが、1990年代中期までは最新モデルを買うならスポーツ店。過去の名作を手に入れたければ古着店で探すしかなく、スニーカーを専門に扱う「mita sneakers」のような店はまだまだ少ない状態でした。

他店との差別化は海外でしか展開していない日本未発売の別注モデルや販路限定品、そしてインターネットがない時代だったので、クチコミが主。当時を振り返ると、スニーカーはストリートカルチャーに造詣のある一部の人やNBAなどのスポーツファンだけに魅力的に映っていたように思います。とてもシビアなビジネスでした。

― 「mita sneakers」といえば、ショップによるコラボや別注の先駆けで、さまざまなメーカーやブランドと協業した、コラボレーションモデルや別注モデルで知られています。その中心的な役割を担ってきた国井さんにとって、ターニングポイントはいつ頃だったのでしょうか。

転機は、入社3年目の1999年に企画をスタートさせ、2001年にリリースした「上野シティアタックシリーズ」の「AIR FOOTSCAPE」(NIKE)です。

「AIR MAX 95」の爆発的ヒットが社会現象となり、スニーカーシーンが盛り上がったのはごくわずかな期間でした。スニーカーバブルが弾けた後に「山男フットギア」という上野のスニーカーショップなどと合同で始めたプロジェクトで、現状を打破したいという危機感から立ち上げたものです。

― とはいえ、小さなスニーカーショップが突然別注モデルを作るのは当時ではかなり異例なことだと思います。どのようにこの企画をNIKE側と取りつけたのでしょうか。

「運が良かった」としか言いようがありません。メーカーと話をするためだけに名刺を作り、当時のNIKE企画担当者に、「僕らの店がある上野を盛り上げたい。そのために、上野だけで限定販売する別注スニーカーを作らせてください!」と直談判しに行ったんです。

担当者がその熱量をかってくれたおかげで、リリースまでこぎつけられました。当時は、別注などのルールはなくすべてが手探り。前例のない取り組みでしたが、新たな価値観を提案できたからこそ、日本のスニーカーカルチャーの伝統を象徴する街「上野」とゆかりの深いモデルを生み出せたと思います。

失敗を恐れずにアグレッシブに動けたのは、右も左も分からない若造だったから。「上野シティアタックシリーズ」がなければ今の自分はないでしょうね。-

― 「上野シティアタックシリーズ」を皮切りに、「mita sneakers」ではさまざまな企業やブランドと別注やコラボレーションを手掛けられています。都度条件の異なる相手とパートナーシップを組む上で、どのようなことを心がけるようになりましたか?

名前を並べることがコラボレーションではなく、新しい概念を作ったり、ストーリーをそこに付け加えたりすることがコラボレーションの本質だと思っています。

上っ面の表層的なデザインではなく、いまこのタイミングでなぜ協業してコラボレーションモデルや別注モデルを作る必要があるのか。メーカーからのベクトルをきちんと自分の中で噛み砕き、それを踏まえて何をするべきか考えます。

― 「自分たちの作りたいもの」だけでも「お客さんが求めるもの」だけでもなく、本質的に協業する意味を持てる、アウトプットを模索する、と。

たとえば、商品自体にもともとオリジナルのデザイナーがいる場合は、メーカーやブランドの商品に込めた想いをじっくり紐解いた上で、新しい概念をそこに加える。それが僕らの仕事の意義だと思っています。

より深く商品開発にコミットさせていただける時も、同じようにブランドのらしさをじっくり考え、そこで導き出した答えに「mita sneakers」らしさを織り込み、丁寧に一つひとつ、ストーリーを積み上げていくことに尽力します。

「いまの気分はこんな感じ」「今期のトレンドはこれ」といった安易な考え方をしたり、ほかのブランドがやっていたことの移植は絶対にしません。「NIKE」なら「NIKE」らしさ、「adidas」なら「adidas」らしさを考え、進化できるプロジェクトになるよう心がけています。各ブランドのアイデンティティであるヘリテージ性やイノベーションを求める姿勢は尊重すべきです。

― その姿勢はコラボレーションをはじめた当初から?

いえ、さまざまな企業とご一緒するなかで学んでいったものだと思います。これは外への意識も同様です。初期の頃は、他店との差別化の延長線上でモノづくりをしていました。ですが現在は、自分たちの主観を織り交ぜながらそのタイミングでリリースする意味や意義を込めて国内外に向けて提案する姿勢を大事にしています。

世界が注目する"小さな"スニーカーショップの未来

― ここ10年ほど、インターネットやSNSの影響もあり、スニーカーは単なる一部の人が愛する趣味のものではなく、ファッションのアイコンアイテムに昇華されたように思います。「mita sneakers」は、SNSやオンラインでの販売も積極的ですよね。

そうですね、比較的早い時期からオンラインでの販売を開始し、全国のお客様と繋がりながら、常に最適なデジタル表現、デジタルコミュニケーションを模索してきました。

特にSNSの影響は強く、スニーカーとSNSはご想像のとおり、相性は抜群です。冒頭にお話したようにスニーカーには世界共通の規格が多く、Instagramに投稿する際、商品名やモデル名にハッシュタグをつけると、世界中のスニーカーヘッズと共有でき、国や地域、店舗限定のモデルはゲリラ的にリリースされても、一瞬で世界に広がっていく。

今やスニーカーシーンは局地的な盛り上がりではなく、世界同時にタイムライン上で動向をチェックでき、スニーカーヘッズは限定商品が市場に放出されるたびに関心を寄せます。

― その現状をどう捉えていらっしゃるのでしょうか。

非常に諸刃なところです。正直にお伝えすると、別注やコラボレーションモデルはスニーカショップにとってインライン(通常モデル)に比べてビジネスの割合として決して高くありません。同業他社からは華やかに見えるかもしれませんがリスクが高く、売れなければ在庫を抱えることになります。

それでも別注やコラボレーションを続けるのは、そのベースとなる定常的に販売されるインラインモデルに目を向けてもらい、スニーカー本来の魅力を多くの人に知ってもらうため。「mita sneakers」も同様です。

世界から注目を得られれば売りやすくはなる一方、別注やコラボレーションアイテムの商品が投資の対象になっているのは、すこし違うかなと思う部分もあります。

― 今後、「mita sneakers」ではどのようにビジネスを押し進めていくイメージを持っていますか?

まず大前提として、上野を拠点に自分たちでコントロールできる範囲でビジネスをしていきます。店舗を増やすことはリスクで、新しい商業施設から出店のお誘いも多くありますがすべてお断りしています。

いまは、オンラインで情報取得も購入もできるからこそ、あらためて店舗にこだわりたいという想いが強いです。店舗を絞るからこそ、路面店に来る人にはまだ知らないスニーカーと出会う体験をしてもらいたい。そのためには僕たちスタッフも商品のバックボーンをきちんと把握し、メーカーやブランドと協業してものづくりを進めるような丁寧さで、接客していく必要があります。

理想は、購入する商品を決めて来店した方に、お店を出るときには違うスニーカーを購入してもらえるような店づくりです。

僕らの会社はイメージがひとり歩きしているだけで、社員の数はとても少ないんです。少数精鋭だからこそ、普段から密なコミュニケーションを図り、年齢に関係なく意見し、分からないことは分からないと話せる関係づくりを目指してきたし、今後もそうしていくつもりです。若い頃の僕がそうだったように、出る杭になってもらいたいし、出過ぎるぐらいが丁度いいと思っていますね。

― 出過ぎる杭......国井さんらしい表現ですね。

仕事って本気で取り組んだほうが面白いじゃないですか。中途半端な気持ちで仕事するのはよくないと思うし、僕自身も生半可な知識を武器にしようと思ったことはない。メーカーやブランドと協業する時もそうです。プロジェクトに関わる人は全員本気なので、「mita sneakers」のメンバーもみな、真摯に向き合う必要がある。精神論に近い話かもしれないけれど、次世代を育てる立場にある以上、本気なわけです。

この業界に入って20年が過ぎた僕は、もう相当におっさんです(笑)。小さな組織として、スニーカーシーンのプレイヤーとして、今後もこの業界に何を残せるかを企んでいきたいですね。

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

国井栄之(くにい・しげゆき)

1976年生まれ。東京・上野の老舗スニーカーセレクトショップ「mita sneakers」のクリエイティブディレクター。1996年、「mita sneakers」入社後、キャリアを重ねる中で、さまざまなメーカーやブランドとのコラボレーションモデルや別注モデルのデザインを手がけ、ショップによるコラボレーションや別注の先駆けとなる。スポーツブランドからラグジュアリーブランドまで国内外のスニーカープロジェクトに携わり、現在、世界のスニーカーヘッズから支持を集めている。

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