偶然の成功は「悪しき前例」となる。北極冒険家荻田泰永がゴール直前でも道を戻る理由

偶然の成功は「悪しき前例」となる。北極冒険家荻田泰永がゴール直前でも道を戻る理由

文:葛原 信太郎 写真:樋口 隆宏

「勇気ある撤退なんて存在しない。勇気は前に進むために必要なのです」無補給単独徒歩で極地に挑む冒険家は、いかにして歩みを進め、撤退を決めるのか

人は何かを選び取るとき、何か別の選択肢を、意識するか否かにかかわらず切り捨てている。時間や予算は有限だ。何かを突き詰めるにはには、膨大な選択と切り捨てを重ね、高みへと登っていく。

博学な人は、知識の深堀りを、どこで「もう十分」と判断しているのか。事業を畳んだ起業家は、どこで「やめる」決断をしたのか。冒険家は、どんな状況で進むことをやめ、撤退するのか。そこには、前に進むための「切り捨て力」とも言えるノウハウがあるのではないか。

日本唯一の北極冒険家・荻田泰永さんは、2000年から2019年までに16回の北極行を経験している。北極圏各地をおよそ10,000km以上移動。2016年には世界初踏破となるカナダ最北の村グリスフィヨルド〜グリーンランド最北のシオラパルクをつなぐ1000kmの単独徒歩行、2018年には日本人初の南極点無補給単独徒歩到達にも成功した人物だ。

「無補給単独徒歩」とは、その名の通り、冒険に必要な物資をすべてソリに乗せ、自らの足だけで一人で冒険の達成を目指すもの。あらゆるものを極限まで切り捨てた、冒険スタイルだ。

冒険を続ける中で、荻田さんが身につけた切り捨て力や正しい判断のための考え方を聞いた。

自分を成長させれば「不要」になる

はじめに、荻田さんの切り捨て力をわかりやすく表す、「持ち物」について話を伺った。というのも、「無補給単独徒歩」という冒険のスタイルは文字通り、冒険に必要な道具をすべてひとりで携えて進む必要がある。大事を取り荷物を増やせば、その分移動の負荷は上がる。一方、軽装にしすぎると、物資が不足した時に文字通り命取りになる。

もちろん、経験を重ねるごとに、装備は洗練されていく部分はあるだろう。荻田さんは、その経験への自覚こそが非常に重要だと考える。

「経験が浅いときは『この道具に不具合が起きたらどうしよう。予備を持たなきゃ』『これがあったら便利かもしれない』と、いろいろなものを持っていきがちです。その判断はすべて正しいんですよ。経験が浅いときには10の装備品だったが、経験を積み3の装備品で十分になったとする。それは、残った3が正しい選択だという話ではありません。経験が浅いときに必要だった10の装備は、その段階では正しい判断です。大事なことは、10のうちから7を切り捨て、3を選び取ることではありません。7が『不要』になるように、自分自身を成長させることです」

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取材に伺った荻田さんの『冒険研究所』には、荻田さんが冒険に使った装備や、何人もの極地冒険家が書き記した冒険記、荻田さんの冒険の写真などが飾られている。様々な分野の人たちが集い、冒険する人をサポートする場所にしたいという。

例えば、料理のレシピは、適量をおいしくつくるために必要なものだ。始めはレシピ通りの分量や手順で作るが、何度も作るうちに感覚をつかみ、レシピをみなくても作れるようになっていく。味付けが物足りないとき、塩を足すのか、しょうゆを足すのか、自分の舌と感覚で判断できるようになる。そうすれば、もうその料理は自分のレパートリーの一つとなり、レシピは不要になるというわけだ。

「冒険において必要な道具とは、身を守るためのもの。自分の知恵やスキルで代替できない、リスクを回避するためのものです。『あったら便利』な道具は、経験に応じて少しずつ必要がなくなります。例えば、寝泊まりするテントを固定する杭。テントを自立させるためには、氷河や地面にテントを固定しなくてはなりません。このとき、経験が浅ければ、固定用の杭が必要です。しかし、経験を積めば、氷や地面をナイフで掘り、穴を開けロープを通すことで代替できる。代替するためには経験と技術が必要ですが、自分自身を成長させれば、『あったら便利』な道具は不要になっていくんです」

現時点での自分の力量を冷静に見極める。足りない部分は外部からの力を借りたり、ツールを使ったりして補う。その過程で、自分の力量を自覚し、悔しさがこみ上げてくることもあるかもしれない。それを糧に成長すればいい。成長すれば、自ずと足りない部分は減っていく。大切なのは、少しずつでも成長を積み重ねることだ。

自分を「客観的に見る」ための状態を作る

荻田さんの話は、持ち物から冒険のプロセスそのものへと展開していく。

北極点へ向けた冒険は、日々取捨選択の連続だ。いつ足下の氷が割れるかわからない中、足を踏み出すべき位置を考え、進むべき道のりを考え、寝るべきテントの位置を考える。

寝ている間に海氷が割れ、冷たい海に落ちる悪夢にうなされるほど、その選択における精神的負荷は計り知れない。荻田さんは2012年と2014年、北極点無補給単独徒歩到達へ挑戦した。しかし、いずれも北極点到達は叶わず、自ら撤退の道を選んだ。つまり、荻田さんは先に進む選択肢を切り捨て、撤退するという選択肢をとったのだ。

この判断に必要な要素として荻田さんが考えるのは、『第三者の目線を持ち客観的に自分を見る状態』だ。

「冒険を語るとき『撤退する勇気』という言葉がよく使われます。しかし、私は撤退に勇気は必要ないと考えています。撤退に必要なのは『客観的な妥協』です。第三者的な視点を持ち、自分の体力や精神状態、残された食料、目的地までかかるであろう日数、距離、現場の状況など、あらゆる要素を頭の中で計算し、最終的な答えが成功ではないなら止めると判断するだけ。勇気が入り込む余地はありません」

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北極を冒険する様子/写真:Yasunaga Ogita

「勇気ある撤退」と表現したくなるのは、自分の「戻りたくない」願望と相反して判断しなくてはいけないからだ。たくさんの人が応援してくれる、スポンサーに資金援助をされている、諦めたら誰かをがっかりさせる。冒険にかけてきた準備と努力が水の泡になってしまう。だから戻りたくない。つい、そう考えてしまうのが一般的ではないか。

「願望が強くなると、目の前にある事実を歪曲し始め、希望的な状況を憶測するようになります。例えば、何も確証がないのに『明日はきっと晴れるはず。晴れれば遅れを取り戻せる』と、架空の希望的な戦略ばかりを考え始めてしまうのです。前提が仮定ですから、戦略としては機能しません。しかし、願望が強くなると、それがまるで論理的な思考回路のように感じてしまうのです」

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ビジネスにおいても、同じような状況は往々にしてあり得るだろう。例えば、個人であれば、周囲から応援されて選んだキャリアでうまく成果が出ない場合。会社であれば、様々な人の力を借りて立ち上げた新規プロジェクトが伸び悩む場合なども同様だ。

いずれも、本来は状況的に厳しいにもかかわらず「まだ頑張りが足りないから」「周囲の期待にこたえなくては」「今後きっと好転するはず」と思いそのまま進み続けてしまう。結果、状況が悪化するといった話は珍しくない。こうならないためにはなにが必要だろうか。

「正しい判断を下すには、『今ここにいる自分』が判断の主体であることが大切です。これまでの努力も、準備も、応援も、今自分が立っている北極で起きていることではなく、日常の世界で起きていること。日常の論理は冒険では忘れて、北極にいる今の自分に判断軸も持たなくてはなりません。そのためには、判断を鈍らせる可能性があることはなるべく取り除いておきたい。お金のもらい方もそうです。現場でプレッシャーになるようなお金だとしたら、受け取ってはいけません。私を応援してくれている人は、私の判断を信じて、また応援してくれている。そう思えるから論理的に撤退すべきタイミングを逃さず撤退できるのです」

「止め時」を決めるのは難しい。しかし、適切な止め時の判断を「今ここ」に置く荻田さんの哲学はビジネスパーソンにも学びになるだろう。

間違えたときはやり直す。偶然がもたらす悪しき前例をつくってはならない

ただ、自分を成長させ、客観的な判断を下しても、人間は「間違える」ことがある。荻田さんは、自身のエピソードを踏まえながら、間違えに気づいたときはそのまま進むことを切り捨て、やり直す大切さを教えてくれた。

「大した失敗もせず、自分が立てた計画をクリアし続けていると、冒険家でも、冒険中の場所が危険だという認識が薄れていく。つまり、成功体験には、悪い影響もあるんです」

荻田さんは、2016年には世界初踏破となるカナダ最北の村グリスフィヨルド〜グリーンランド最北のシオラパルクをつなぐ1000kmの単独徒歩行を成功させた。しかし、最後の氷河の坂を降りて、ゴールの村に向かう途中、間違いが起きた。

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「氷河に向かって右側が地元の人も使う安全なルート。本来ならそちらを降りていくべきでした。しかし、天気が悪くて視界が効かず、左側のルートに入ってしまったんです。最初は気づかなかったのですが、坂を降りるうちに、深い氷河の割れ目が増えてきた。違和感を覚えて立ち止まり、地図を取り出しました。視界が悪いなりに見えている景色と地図を注意深く見比べた結果、間違ったルートである左側に来ていることに気づいたのです」

気づいた時には、すでにかなりの距離を降りていた。正しいルートに戻るには、降りた分だけ登り、また正しいルートを降りなければならない。「ここまで来れたのだから、このまま降りられるのではないか」と誘惑にかられながら、その場で20分ほど悩んだそうだ。

「考えた末に、来た道を戻ることにしたんです。ルートを間違ったことに気づいたのに『降りてこれてしまった』成功体験は、将来的に自分を危険に晒すと考えたからです。万が一、無事に降りきったとしても、それは自分の実力ではなく、運が良かっただけ。ただの偶然でしかない成功体験は、言わば、悪しき前例です。もし、今後の冒険で同じような状況に陥ったとき『あのときと同じように、今回も大丈夫』と判断を下す根拠になってしまう。そのとき成功する確証はありません。仮に早急に降りなければいけない状況だったら、そのまま降りたかもしれない。しかし、来た道を戻ることを決めたあの判断は間違っていないと今も考えています。間違った判断で成功をしてはいけないんです」

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南極を冒険する様子/写真:Yasunaga Ogita

勇気についての話していたとき、荻田さんは「勇気が必要なのは、撤退でなく、前進です。足を一歩づつ前に進めるために勇気が必要なのです」と語っていた。

命を奪いかねない選択の連続を荻田さんは冷静に判断し、勇気を持って冒険家を続けている。ビジネスにおける判断も、冒険家同様、非常にシビアだ。冒険家が命をかけて見つけた哲学は、ビジネスパーソンのコンパスにもなるはずだ。

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

荻田泰永(おぎた・やすなが)

北極冒険家。カナダ北極圏やグリーンランド、北極海を中心に主に単独徒歩による冒険行を実施。2000年より2019年までの20年間に16回の北極行を経験し、北極圏各地をおよそ10,000km以上移動。世界有数の北極冒険キャリアを持ち、国内外のメディアからも注目される日本唯一の「北極冒険家」。2016年、カナダ最北の村グリスフィヨルド〜グリーンランド最北のシオラパルクをつなぐ1000kmの単独徒歩行(世界初踏破)。2018年1月5日(現地時間)、南極点無補給単独徒歩到達に成功(日本人初)。2018年2月 2017「植村直己冒険賞」受賞。TBS「クレイジージャーニー」NHK「ニュースウォッチ9」WOWOW「ノンフィクションW」などで特集番組多数。ラジオ、雑誌、新聞など各メディアでも多く紹介される。日本国内では夏休みに小学生たちと160kmを踏破する「100milesAdventure」を2012年より主宰。北極で学んだ経験を旅を通して子供達に伝えている。海洋研究開発機構、国立極地研究所、大学等の研究者とも交流を持ち、共同研究も実施。北極にまつわる多方面で活動。著書「北極男」講談社(2013年11月)、「考える脚」KADOKAWA(2019年3月)

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