“出会いの瞬間”に魂を込める。『チ。―地球の運動について―』の作者が抱く祖父からの言葉
数々の漫画賞を受賞した話題作『チ。―地球の運動について―』。作品と向き合うなかで訪れた、思わぬ葛藤と自身の変化とは?作者の魚豊さんに訊く、何よりも“出会い”を大切に描く理由。
15世紀ヨーロッパを舞台に、地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いた『チ。―地球の運動について―』(以下、『チ。』)。2020年の連載開始から大きな反響を集め、2022年には手塚治虫文化賞マンガ大賞にも選ばれた。累計部数は350万部を突破し、今なおファンが増え続けている。
作者の魚豊(うおと)さんは「命をかけられるものがある人生は幸せ」をテーマに、この作品をつくり上げたと話す。たしかに、読み進めるほど「自分が命をかけたいものは何か?」という問いが自然と湧き上がってくる感覚がある作品だ。
なぜ、同作は多くの人々の胸に響くのか。「出会い」を足がかりに、魚豊さんが作品に込める想いや現在向き合う自身の変化、漫画家としての同氏を形作る経験について話を聞いた。
「命をかける」ほどに、魂や愛を注げる人生は幸せだ
── 魚豊さんが『チ。』という作品を通して描きたかったテーマとは何だったのでしょうか。
地動説を信じる人間たちが、立場や時代を超えて、決死の想いでその証明のバトンを託していく。命がけで世界の真理に挑む物語を通して、「命をかけられるものがある人生は幸せだ」というテーマを描きたいと考えていました。
そもそも僕は、『チ。』に限らず自分がつくるすべての作品において、「命をかけられるものがある人生は幸せだ」というテーマを描きたいと思っている節があります。「命をかける」というと、少し危なっかしいように聞こえるかもしれません。でも、それほどに魂や愛を注げる何かがある人生こそが、幸せな人生だと憧憬しているんです。
── そうしたテーマを漫画で描くために、特に意識していることはありますか?
僕自身が自分の“本音”に向き合うことでしょうか。
本音というと「お酒を飲んで酔ったときに思わず出てくる言葉」とか、むき出しの「本能」とかをイメージする人もいると思います。でも僕は、それは本音ではないと感じていて。思うがままに発した言葉ではなく、本能と理性の葛藤から生まれる言葉、あるいは葛藤した結果「言えなかったこと」こそが、真の本音だと思っているんです。
そして葛藤の末に絞り出した本音の先にしか、誰かにとって「命をかけられるもの」との出会いはない。だからこそ、そこに拘りたいんです。
そのためには作者である自分が、自分の本音と向き合いながら、描くべきだと考えています。だから、僕自身が自分の本音を見つめることをやめないように、例えば人間関係の都合とか、セールスとか、特定の読者層に媚を売るとか、そういう事を遠ざけて、考えていきたいと思っています。
祖父からの最後の言葉を抱き、“出会いの瞬間”を大切に描く
── リクルートは「まだ、ここにない、出会い。」を理念に掲げて活動しています。「バトン」という言葉も上がったように、同作の鍵となっているのも地動説を巡る数々の“出会い”ですよね。
そうですね。僕は誰かと誰かが“出会う瞬間”を何よりも大切に描こうと心がけているんです。『チ。』もそういう場面を重視して描きました。
“出会い”を大切にする考えや姿勢の背景には、母方の祖父からもらったある言葉があります。自分の人生にとって、一つの分岐点にもなったと感じる言葉です。
── いつ頃、どのような言葉をかけられたのでしょうか?
僕が20歳くらいの頃、病床の祖父から急に「人生は出会いがすべて」という話をされたことがあって。それまで人生についての話をされたことがなかったので、少し驚いたんです。
祖父は自分の人生は素晴らしいものだったと話したうえで、それが自分の実力ではなく、たくさんの縁に恵まれたからだと教えてくれました。「だからこうしなさい」みたいなことは一切言わず、「とにかく人生とは出会いなんだ」と。
その3か月後くらいに、祖父は亡くなりました。最期に会った時は言葉も出せない状態になっていたので、結局あの話が、祖父と交わした最後の言葉になったんです。この世を去る前に、それだけは伝えたかったのだと思います。
── それはきっと、魚豊さんにとって忘れられない出来事になっているでしょうね。
はい。当時はぼやっとしながら聞いていて、正直なところ「それはそうだ」くらいにしか思っていませんでした。でも祖父が亡くなり時間が経つにつれて、祖父が送ってくれた言葉が自分のなかで少しずつ、重みを持つようになってきて。
何度も反芻するうちに、あの時は理解できなかったその意味が、ちょっとずつわかるようになってきた感覚があります。僕が出会いに特別な意味を見出し、漫画においては出会う瞬間を何よりも丁寧に、ドラマチックに描くと決めている背景には、この出来事の影響が大きくあります。
描き続けるなかで訪れた“停滞”の感覚
── 魚豊さんご自身にとっての“出会い”についても聞かせてください。これまでの人生で特に影響を受けた、出会いに関する経験や出来事はありますか?
色々とありますが、なかでも大学時代の出会いは自分にとってすごく意味のあるものばかりでした。
その一つが友人たちとの出会いです。一緒にいて心から楽しいと思える友達ばかりで、それでいて、自分の知らない世界を色々と教えてくれた。一緒にいる中で、自分のなかで生まれる気づきや感情の一つひとつが、どれも新鮮でした。
彼らとの出会いがあったからこそ、自分自身の“想像力”が広がったとも感じています。「自分が発した言葉をこうやってとらえるんだ」とか、逆に「こんな言葉を言われるんだ」とか。そんな発見の積み重なりが自ずと、作り手としての糧になっている。振り返るとそういった機会が多々ありました。細部の描写を含めた作品の内容にも、間違いなく影響しています。
── 漫画家としての活動にも、大学時代の出会いが良い影響を及ぼしているのですね。
はい。大学時代に限らず、あとから振り返って「あの出会いにはこんな意味があったんだな」と感じることは数多くあります。同時に、自分はこれまで良い出会いにたくさん恵まれてきたとも感じるんです。
たとえば、今年に入ってから知人を集めて読書会を始めたのですが、それも今の自分の人生にとって最も豊かな時間の一つになっています。救われたと言っても言い過ぎでは無いです。言い過ぎかもしれませんが。
── なぜ「救われた」と感じたのでしょうか。
実は昨年『チ。』が完結した頃から、自分の人生に“停滞感”を覚える日々が続いていて。新しいことが何も起こってない、前に進めていないような感覚です。本当はそんなことないはずなのに、毎日同じことを繰り返しているような気持ちになってしまうというか……。
そもそも僕は、誰かと会って話をしたり、そのなかで刺激や気づきをもらったり、そうやって日々を過ごすことが好きな人間なんです。でも漫画家として本格的に活動を始めてから、“閉じこもって”作品をつくる時間が増えていった。結果として、それまでと比べて極端に“出会うこと”が少なくなった感覚がありました。
新たな出会いが減ったことが、停滞感の要因なのかもしれない。読書会を行った時もそう考え、なんとか抜け出したいと思っていた時期でした。そのタイミングに、一冊の本を中心に集まって、友人たちと色々な話ができた。久しぶりに色々な刺激をもらい、生き返ったような気分になれたんです。ゼミの真似事みたいな感じですが、これがすごく楽しい。
── その停滞感から、今は抜け出せたと感じているのでしょうか。
いや、まだ抜け出せたとは思えていません。薄まりつつはあるけれど、まだ心のどこかにあるような。どう向き合えばいいのか、正直なところ僕自身もまだわかりきってはいなくて……。
とはいえ、そういう感覚があるなかでも、描きたい題材や企画は出てくるので、実現する機会をいただけるなら、漫画も作り続けたいし、その可能性によって救われています。自分は幸運だという想いは尽きません。
── 停滞感があるなかでも漫画を描きたい、何かをつくりたいという意欲は尽きないのでしょうか。
そうですね。何かをつくることで社会とつながっていたいという気持ちがあるから、漫画を描き続けているのかもしれません。
思えば、『チ。』が完結した直後も似たような感覚でした。作り終えると同時に、文字通り“何もやることがない”時期が訪れて。その時に苦痛というか、 何もしていないことに対する不安や焦りが、瞬く間に募っていったんです。いま振り返ると、すぐに次の作品に取り掛かった背景にはそんな気持ちの動きがあったと感じます。
『チ。』をやりきって生まれた、漫画家としての思わぬ変化
── 『チ。』という作品と出会ったことで、魚豊さんご自身にはどんな変化がありましたか?
漫画家としての具体的な変化は、恋愛をテーマに描こうと考えるようになったことです。その変化が新連載『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』の創作にもつながっています。逆に『チ。』を書き終える以前は、まさか自分が「恋愛」を題材に作品をつくるなんて、100%まったく思ってもいませんでした。
── なぜ、『チ。』を契機に恋愛をテーマにした作品を?
『チ。』をつくり上げる過程において、その時点の自分がやりたかったことをすべてやりきったからだと思います。
その際に打ち合わせしていた担当さんの恋愛の話をよく聞いていて、一度空っぽになったことで、自分でも想像していなかったような新たな興味が湧き出てきた。「あ、自分はこういうものも描きたいのか」と、自分の新しい面に気づかされたような感覚でした。その一つが恋愛をテーマにしたものだったんです。
── ほかにも『チ。』がきっかけとなった変化はありますか?
完結に向かうにつれて、良くも悪くも自分自身が“満たされていく”ように感じていました。作品に対して、自分が思っていた以上に高評価をいただけたことがその理由です。すごく嬉しかったですし、つくっている最中ずっと楽しかったんです。
一方で、「満たされたからこそ失ったもの」もあるように感じていました。たとえば、創作の原動力になっていたある種のハングリーさがその一つ。満たされないからこそ持ち合わせていた、飢えから生まれるエネルギーがなくなっていくことへの不安がありました。
それに加えて、「自分はこれくらいで満たされる人間だったんだ」という気づきもあって。人気作品の続編をずっとつくり続けている方たちは本当にすごいと、改めて思い知らされましたね。
── 評価を獲得したからこそ知れた、ジレンマと言えるかもしれません。
だからといって売れたくなかったかと言われると、当然そんなことはまったくなくて。本当にありがたいことですし、『チ。』がこの先より多くの人に読まれてほしいという気持ちも絶えずあります。
どの気持ちも嘘ではなく、たしかに自分のなかに存在している。「もう満足した」自分と「まだ満足したくない」自分とが、何とも言えない不気味なバランスで同居している感覚なんです。
── 良くも悪くも満たされていく、その変化を今後どのようにとらえ、向き合っていきたいと考えていますか?
今すぐは難しくとも、自分にとっては超えていかなければいけない、超えていきたい壁の一つだと感じています。
僕が漫画をつくる上で大切にし続けているのは、読み終わった後にポジティブな気持ちになれる作品をつくることなんです。その気持ちだけは漫画を描き始めた頃から、絶対に揺るがないものとしてあり続けています。
そしてその想いは、今後どんな作品をつくるにしても変わらないと予感しています。これから先、読んでくださる皆さんに少しでもポジティブな影響を与えられる作品を、一つでも多く届けていきたい。そのために、自分の変化から目を背けずに、向き合うことで生まれたエネルギーを作品に反映していきたいと思っています。
プロフィール/敬称略
※プロフィールは取材当時のものです
- 魚豊(うおと)
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1997年生まれ、東京都出身。2018年11月『ひゃくえむ。』で連載デビュー。2020年に週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)で『チ。―地球の運動について―』の連載を開始する。同作が「マンガ大賞2021」の第2位、「次にくるマンガ大賞2021」のコミックス部門第10位、「このマンガがすごい! 2022 オトコ編」の第2位、「第26回手塚治虫文化賞」のマンガ大賞などを受賞。シリーズ累計部数は350万部を突破している。また2022年6月にはアニメ化も発表された。2023年8月からコミックアプリ・マンガワンにて、新連載『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』がスタート。