アジアの貧困地域で医療活動25年。ジャパンハート吉岡秀人の「継続する力」
困難の多い環境で長年活動を継続している人・組織は、なぜ続けられるのか。その道のりやスタンスから、「持続可能性」を高めるヒントを探る
ミャンマー、カンボジア、ラオス。まだ医療が十分に行き届いていないアジアの貧困地域で、無償の医療支援を行う吉岡秀人さん。1995年に単独で渡ったミャンマーでの活動にはじまり、2004年には国際医療ボランティア団体ジャパンハートを設立。25年にわたって活動を続けてきた。
手術中の停電も日常茶飯事で、日本の当たり前が通用しない環境。様々な困難が待ち受けていたことは想像に難くない。それでもなお、吉岡さんが続けてこられたのはなぜなのだろうか。吉岡さん自身の人生観やリーダーとしての考えをうかがい、人命に携わる者としての大義を越えた、すべての個人・組織に通じる「継続力」を紐解く。
「人のため」では続かない。原動力は「自分のため」
有名ビジネスドキュメンタリー番組をはじめ、テレビ・新聞・ラジオなどでも活動が報じられ、文部科学大臣賞や外務大臣表彰といった数多くの受賞をしているジャパンハート。国内でも大手企業をはじめさまざまな団体がその趣旨に賛同し取り組みを支援するなど、活動の輪は着実に広がっている。
だが、吉岡さんが個人で活動していた1990年代は、理解を得るのは容易ではなかったという。当時、日本の医師が海外に行くことは、『アメリカで最新の医療を学ぶ』ことであり、無償でアジアに行くなんて、せっかくのキャリアを棒に振るようなものだという見方が大勢を占めていたのだ。
誰からも応援されない状況で、それでも吉岡さんが続けられたのはなぜか。訊ねてみると、返ってきたのは意外にも「自分の人生のため」という答えだった。
「僕が常々考えてきたのは、僕自身が質の高い人生を生きること。やってきたことの積み重ねが人生そのものなのですから、無駄なことに時間を費やして自分の人生を擦り減らせたくなかったんです。周囲に認められるかどうかではありません。僕は医療の届かない地域や人に医療を届けることこそが私の人生だと信じ、やると決めたからやり続けた。そうすることが自分なりの最高の人生だと思ったんです」
吉岡さんが貧しい地域に医療を届けることを人生のミッションにしたのは、10代の時。自分のような活動をする医者は他にもいるものだと思い込んだまま30歳で実際に現地に入ってみると、目の前には多くの病に苦しむ人たちがいるのに日本人は誰もいなかった。そして、世界を見渡しても貧しい人々に医療を届けている日本人はほとんど存在しないと知った。それが吉岡さんの人生を決定づけた原体験になっている。
しかし、きっかけや志がどんなに素晴らしいものでも、自分を犠牲にしているといつか挫折する。全ては「人のため」ではなく「自分のため」である自覚こそが「継続する力」を生み出す、と吉岡さんは言う。
このスタンスは、活動が注目されるようになって学会に呼ばれたり、メディアで取り上げられたりしてからも変わらない。周囲からの評価は、10数年が経過するうちに世の中の価値観やトレンドが変わり、ジャパンハートの趣旨がたまたま今の流れに合致しただけではないかと冷静だ。
「他人の評価の尺度は参考にしてもいいけれど、これを基準に生きるのはとても危険なことです。たとえば、マラソンを完走するという目的に対して、タイムが人より早い遅いは関係ないですよね。それを気にしはじめるとペースが乱れ、決断が鈍り、自分の選択を疑ってしまう。周りで何が起ころうが、自分を信じて走るしかないんです」
逆風が吹くのは、むしろ健全な証拠
我が道を貫き通すことで、活動を続けてきた吉岡さん。しかし、現地では日本の常識で考えられないような環境で医療を行わねばならず、活動は基本的に無償だ。衛生面・資金面・設備やインフラの脆弱さなど、「断念しても仕方のない理由」はいくらでもあったはずだ。想いだけではどうにもならないような困難が次々と押し寄せるなかで、なぜ彼は道なき道を切り拓いてこられたのだろうか。
「これは貧困地域の医療活動に限った話ではなく、何をやろうが、どこでやろうが同じ。本気で自分のやりたいことを実現しようとすれば、何かしらの常識や秩序とぶつかるような困難がありますし、周囲から非難されるような『逆風』も吹くでしょう。でも、僕は邪魔をする人や反対する人がいる方がむしろ健全だと思います。
順調すぎる状態はかえって怖いと感じます。失敗がないと潜在的な問題も気づきにくいし、後になって継続が危ぶまれるような課題に直面してしまうじゃないですか。第一、人がまるっきり同じ価値観を持つことなどありえないのだから、批判や指摘はあって当然ですよ」
自分の常識や考えが通用しないような困難に直面するうち、自我がぶつかり合ったり、違いを受け入れたりを幾度も経験してきた吉岡さん。すると、次第に自分の心のキャパシティが広がっていくのを感じたそう。思うようにいかないことがあってもくじけない力。吉岡さんはこれを「一生涯応用が効く力」だととらえている。
また、困難に向き合うなかでもう一つ気づいたことがある。それは、結果よりもプロセスにこそ人生の本質があることだ。
「目の前の患者のために最善を尽くすのは当然です。けれど、どれだけ良い医療であっても、救えるときもあれば救えないこともある。だとしたら、結果はどうあれ患者のためにどう考え、何をするか、どれだけ努力するかにこそ私の人生が存在するのです。多くの人は何かをする時、失敗を恐れて行動をしない。しかしそれはプロセスを失うこと、すなわち自分の人生を失うことに通じているのです。人生の大きな損失とは失敗することではなく、プロセスを失うことなのだと思います」
ここに必要なのは、一人のゴッドハンドより再現性のある仕組みだと考えた
ジャパンハートは、日本から多くの医療者やボランティアが参加する形で拡大。通算4,500名を越えるボランティアが参加し、20万件の治療を実施してきた(2018年3月)。25年前とは、規模もできることも各段に大きな組織へと発展しているが、吉岡さんは単に活動を大きくするために組織化した訳ではない。個人で頑張っても活動が継続しづらいことを、最初に単独でミャンマーにわたった時点で突き付けられたのだという。
「現地にはヨーロッパの医療団体がいたのですが、誰でも専門性を持った役割分担が確立しており、医療も含めて全ての活動がシステム化されているのを目にしました。かたや僕は日本でのキャリアを捨てる覚悟で単独で乗り込んだのに、たった一人では医療の規模や仕組みで彼らに到底太刀打ちできなかった。このままでは現地の人々に最善の医療を提供し続けることは困難だと思われた。だから個人の努力で何とかしようという精神論はやめて、科学的にやろうと決意しました。再現性のある活動にするための組織をつくろうと決めたんです」
再現性を持たせるとはすなわち、吉岡さんでなくても活動できる状態。なぜこれが重要かといえば、ジャパンハートが貧困地域で全ての疾患に長期にわたり向き合わなければならないことにある。たとえば、紛争地域や災害に伴う緊急医療支援であれば、比較的短期間の活動になる。その場合は少数精鋭が短期の頑張りで乗り切れるかもしれないが、ジャパンハートが戦っているのは長期戦。リーダーや卓越した技術を持つ限られた人材だけで、長く続けて行くことは非現実的だからだ。
「医療の世界では凄腕の医師を『ゴッドハンド』と呼ぶことがありますが、『ゴッドハンド』頼みの組織はその人がいなくなった途端に存続が危ぶまれます。貧困地域での活動を継続するには、一人のゴッドハンドより、多くの人が参加できる再現性を持った仕組みこそが必要なんです」
この考えを反映して、ジャパンハートでは短期ボランティアの仕組みを創出。吉岡さんがはじめた時代はすべてを投げ売って行く覚悟がある人だけの活動だった海外医療支援を、何も犠牲にすることなく日本での仕事・生活を維持しながら参加できるものへと変化させた。これがジャパンハートの活動の継続性に大きく寄与している。
また、50代半ばを迎えようとしている吉岡さんは、ここ1~2年でリーダーシップのとらえ方が変わってきたそう。それは、どのように次世代へバトンを渡すかという、組織を継続させる力にも通じることだ。
「以前は、そうはいっても日々様々な困難があるので、自分が先頭に立って力強く引っ張っていくべきだと考えていたんです。ただ最近は、みんなにチャンスをつくることがトップの役割だと思うようになりましたね。一人ひとりの才能を見抜き、若いうちにその才能を最大化できる機会を提供することが、僕が今やらなければならないことだと考えています」
無駄な苦労はさせたくないが、今のうちから果敢に挑戦して成長してほしい。吉岡さんはそう語りながらジャパンハートの若手職員に期待を寄せる。25~6歳でミャンマーやカンボジアに赴任するような責任あるポジションを任せているが、早すぎるとは全く思わないという。
「先日も20代の男性職員から、『なんでこんな若手に任せてくれるんですか』なんて聞かれたんですが、今世界を変えているのは、10代20代の若者ですよね。世界では当たり前なのに、まだ若いからと20代にチャンスを与えないのは、きわめて日本的な年功序列の発想です。これが今日本が失速する原因になっている。医者が手術の腕を磨くのだって、若いうちから経験した方が習得も早い。こんな考え方で次世代を育てていくことが必要なんだと思います」
プロフィール/敬称略
※プロフィールは取材当時のものです
- 吉岡秀人(よしおか・ひでと)
- 特定非営利活動法人ジャパンハート最高顧問/ファウンダー/小児外科医
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1965年大阪府吹田市生まれ。大分大学医学部を卒業後、大阪、神奈川の救急病院で勤務。1995年よりミャンマーにて医療活動に従事。97年に帰国するも、2003年より再びミャンマーに渡り、2004年に国際医療ボランティア団体ジャパンハートを創設。現在までミャンマー、カンボジア、ラオスで医療活動に従事すると共に、国内地域医療支援など、活動の幅を広げている。著書に『飛べない鳥たちへ ~無償無給の国際医療ボランティア「ジャパンハート」の挑戦~』(風媒社)、『救う力』(廣済堂出版)、ほかジャパンハートの海外活動地の7年を追った初の写真集『ONE SKY』などがある。