違う価値観を理解できなくてもいい。作家・山崎ナオコーラが考える多様性社会の生き方
人と異なる生き方を肯定的に描いてきた作家・山崎ナオコーラは、ダイバーシティが進む現代社会をどう見ているのか。幅広い価値観を受け入れる時代の生き方・コミュニケーションのあり方を考える
企業でも、学校でも、地域でも。社会の様々な枠組みでダイバーシティ&インクルージョンの取り組みが進んでいる。その一方、一つの組織に集う人が多様化する過程で、性別、年齢、国籍などの違いに起因した軋轢が生じてしまうケースも耳にする、一筋縄ではいかないテーマだろう。
こうした多様性にまつわる作品を発表してきたのが、作家の山崎ナオコーラさんだ。2004年の小説『人のセックスを笑うな』でデビューした山崎さんは、多くの作品で人とは異なる生き方を肯定的に描き続けてきた。また、自身についても「女性作家」ではなく「作家」、「母」ではなく「親」と称するなど、必要以上にカテゴライズされないスタンスを貫いている。山崎さんの生き方や価値観から、真の多様性社会を実現するヒントを探った。
社会が求める「らしさ」を無理して演じなくても良い時代になった
19歳の青年と39歳の女性の恋愛を描いたデビュー作『人のセックスを笑うな』。自身の出産・育児経験を綴りながら、社会から女性らしさを求められることへの違和感を吐露したエッセイ『母ではなくて、親になる』。専業主夫が主人公で、「女性に養ってもらう男性=ヒモ」という蔑称への疑問からタイトルをつけた小説『リボンの男』。
山崎ナオコーラさんの作品には、社会が定義する「ふつう」とは異なる生き方をフラットに見つめる眼差しが感じられる。なぜ山崎さんは多様な価値観を肯定する作品を発表してきたのか。その背景にあるのは、子どもの頃から感じていた違和感だという。
「私は昔から、社会的なシーンで女性として扱われるのが好きではありませんでした。正確に言えば、区別されることに違和感があったんです。子どもの頃は、学級名簿が男女で分かれていることや、ランドセルの色、制服の違いも嫌でした。もちろん、女性らしく生きたい人はそうすれば良いと思う。でも、私は『カテゴライズされること』に辛さを感じてしまうから、なるべく性別を問われずに生きたい。第一、今の社会の中で男性か女性かと定義することはあまり意味がないと思うんです。たとえばパスポートの性別欄。国籍の証明書なのだから、本来は性別を示す必要はないはずですよね」
性別をはじめとした属性を社会から問われ過ぎることへの疑問。それが自身の発表する作品にも影響していると山崎さんは語る。ただ、幼少期の経験や2004年のデビュー直後に「女性作家」として世間から扱われたことの違和感に比べれば、社会は確実に明るい方へ向かっているとも感じるそうだ。
「少し前の社会には、人から自分の属性について嫌なことを言われても、我慢をするのが正しい振舞いだという空気感があったと思います。もし容姿についてからかわれても、反論するより"スルーする力"を身につける方が賢い生き方だった。極端な話、ブスと言われてもそれを笑いに変えるくらいの気概がなければ社会で生きられず、傷つく方が悪いとみなす雰囲気があったと感じていました。
でも、今はSNSで『それはおかしい』と小さな違和感を発信できるくらい、社会の空気は変わりました。我慢をせず声を挙げても良いのだとみんなが気づいたことで、無理をしてまで相手が期待するようなキャラクターを演じる必要はなくなったんじゃないでしょうか」
多様性を巡る問題は、加害者個人を批判してもあまり意味がない
新卒採用のエントリーシートから性別欄をなくす企業が現れたことや、女性が職場でヒール・パンプスの着用を強制されることを失くす運動「#KuToo」などを例に挙げ、社会の変化を前向きにとらえていると語ってくれた山崎さん。
しかし、世間で起こる様々な動きに対しては、「弱い立場のマイノリティがマジョリティを批判するだけでは上手くいかないのではないか」と投げかける。
「誤解されやすいのですが、私は『怒れる女性として男性の意識を変えたい』のではないんです。間違っていることは声を挙げて正す必要があるけれど、男性ばかりを一方的に批判してもむやみに対立構造を生むだけ。多様性をさらに推し進めるには、人を属性で区別する社会の仕組み自体に目を向ける必要があると思います」
山崎さんが社会システムに言及するのは、人類の歴史を過去にさかのぼるほど、個人をカテゴライズすることが社会を維持するために重要な役割を果たしていたからだという。逆に言うと、人類は社会が高度化すれば属性の呪縛から解放されるはずだと考えている。
「まだ人が動物に近かったころは、本能的な欲求に従って生きていたはずですよね。だから繁殖をするために個々の性別を認識することは重要だったし、狩りをして暮らしていた時代は、男性が集団で獲物を捕りにいくことで何とか食糧を確保していた。原始的な時代ほど、社会を成り立たせるためには分かりやすい属性による役割分担が不可欠で、少数派の意見を聞く余裕もなかったのではないでしょうか。
ですが、現代は"生きるため"や"子孫を残すため"以外の目的でも人は出会い、集いますよね。友達同士の交流も大事だし、結婚して子どもを産むことだけが恋愛のゴールではない。現代社会は、いろんな人が様々な目的で交わる複雑で高度な社会だから、属性が社会的な役割に直結しません。それなら、社会の仕組みから人の属性を問うことを減らしても良いと思うんです」
また、山崎さんが社会の仕組みに目を向けるのは、人の価値観が育った時代に大きく影響すると感じているからでもある。なぜなら、性別で判断されたくない山崎さん自身も、属性の印象に左右されて人を判断してしまう瞬間があるから。どんなに多様性に寛容であろうとしても、時代ごとに越えられない限界があるとも思うそうだ。
「たとえば、目の前を歩いている人の容姿を見て、『ちょっと怖そうだな』『あまり関わりたくないな』と勝手な判断をしてしまう。その度に『あぁ、私は人を外見で判断する人間なんだな』と気づかされますし、それを自覚して生きていくしかない。
無意識にやってしまうのは、価値観が形成される若い頃の社会がそうだったせいでもあると思うんです。上の世代になればなるほど、成熟度が低い社会、つまり属性で人を判断する重要度が高い社会で育っているから、悪気もなく配慮に欠けた発言が出る割合が高くなりやすい。だとすれば多様性にまつわる様々な問題は、個人のせいではなく育った時代の社会システムが原因じゃないでしょうか」
人は、他者に共感できなくても、他者と共存できるはず
では、人の多様性が尊重される社会システムへと変わっていくにはどうしたら良いのだろう。山崎さんは、やはり私たち一人ひとりが属性に言及しすぎないことだと語る。
「たとえば、メディアで人物を紹介するときは、名前の後で(35歳・男性)のように書くのがお決まりになっているじゃないですか。私はこれも過度な紹介だなと思っていて。そもそも年齢と性別2つの情報で人を表現できるわけがないのに、敢えてこの情報を出すことでステレオタイプな印象を与えていると思うんです。必要のない属性は知らないほうが、他者を色眼鏡で見ないで済む気がします」
たしかに、ビジネスシーンにおいても「女性だから」「20代だから」と仕事に直接関係のない情報が仕事の評価に影響するのはフェアではない。その一方で、企業などの組織に属していれば、同じチームにいる者同士で協力しあうために、相手を知りたい、もっと理解したいと思うのも自然な感情ではないだろうか。
「知ってもいいけれど、理解しようと張り切り過ぎなくてもいいんじゃないでしょうか。相手を完璧に理解しなくても、人は誰かと仲良くしたり愛しあったりできると思うんです。むしろ、考え方や価値観が違う相手に出会ったときに、無理して分かり合おうとするから、やっぱり分かり合えないといざこざが起きる。100%理解するのは無理だと割り切って、『私は私、あなたはあなた』でそれぞれの路線で頑張ってもいいじゃないですか」
今後ますますダイバーシティ&インクルージョンが進めば、これまでは社会に表出されてこなかった様々な価値観と出会う時代になっていく。そうすれば自分が理解できない相手と交わる場面も各段に増えていくだろう。それならば山崎さんが言うように、「共感はできないけど、その考え方があってもいいよね」と認め合うことは、これからの時代に必須のスタンスになっていくのではないか。
しかし、真の多様性を実現するにはまだ道半ば。他人から「らしさ」を強要されたり、ステレオタイプな意見をぶつけられたりすることもまだ少なくはない。そうした場面に直面したとき、山崎さんはどうしているのか。最後に山崎ナオコーラ流の対処法を紹介しよう。
「面と向かってそれは違いますと言えたらいいんですけど、場の空気を壊してまで衝突をしたいわけじゃないし、私は作家だから『はい、はい』と適当な相づちで流すのも、言葉に無責任な気がして嫌なんです。だから、そんなときはせめて肯定も否定もせず、頷かない。そうしたら、ちょっとだけ気持ちが楽になりました。
結局、相手がどう思おうと『自分がどんな気持ちでいるか』が大事なんですよ。子育てをしていれば、周りから『お母さん』と呼ばれることは頻繁にあります。でも、いくら言われようと私は自分を『親』と名乗る。お母さんと呼びたい人は呼べばいいし、私は親。そうやって共存していってもいいと思うんです」