手が届きそうな世界を諦めない。ハーバード卒アイスホッケー選手が続ける、前例のない挑戦

手が届きそうな世界を諦めない。ハーバード卒アイスホッケー選手が続ける、前例のない挑戦
文:荘司結有  写真提供:佐野月咲さん

ハーバード大学に進学し、日本人で初めて全米体育協会1部リーグでプレー。現在は北欧でプロアイスホッケー選手として活動する佐野月咲さん。彼女はいかにして道なき道を切り拓いてきたのか。

泣きながら電車に揺られていたら、いつの間にか山手線を一周していた。
その日から、人生は大きく動いていった。

幼い頃からアイスホッケーに情熱を注いできた佐野月咲(さの・るなさ)さんは、17歳で経験した挫折を機に、米国の名門・ハーバード大学への進学を決意した。北米では高い人気を誇るスポーツのアイスホッケー、強豪のハーバードには将来を嘱望されたトップ選手たちが集う。

そんな中、佐野さんは単身で渡米して同校へ進学し、日本人で初めて全米体育協会1部リーグでプレー。2022年に卒業した後、プロとして活動をはじめ、現在はフィンランドのチームでプレーしている。

佐野さんはいかにして挫折を乗り越えて、自分だけの道を切り拓いてきたのだろうか。彼女の“挑戦を恐れないマインドセット”について聞いた。

高校1年でU18代表入りするも翌年に落選「自分のアイデンティティが失われた」

— 佐野さんはどのようなきっかけでアイスホッケーに出会ったのでしょうか?

5歳の頃、当時住んでいた江戸川区のスケートリンクで、小さい子どもたちがアイスホッケーをしているのを見たのがきっかけです。その姿を見て「わたしもやりたい!」と言い、習うようになりました。

アイスホッケーって日本では珍しいスポーツですよね。当時、私は他にもピアノやスイミング、英会話を習っていたのですが、それらと比べてアイスホッケーは周りの子たちが知らない珍しいもの。それを自慢したいという気持ちもあったのだと思います(笑)。

冬になると、毎週末のように長野や群馬に遠征することも多く、学校や他の習い事では味わえない特別感がありました。小さい頃は吸収も早かったので、できることが増えていく感覚も楽しかったのだと思います。

2004年、アイスホッケーをはじめてすぐの頃の佐野月咲さん。江戸川スポーツランドにて
2004年、アイスホッケーをはじめてすぐの頃。江戸川スポーツランドにて

— 習い事として始めたアイスホッケーが、「トップレベルを目指す」ような競技性を帯びていったのは、いつ頃からだったのでしょう?

中学校の後半ころからです。小学校〜中学校に入ったばかりの頃までは「(アイスホッケーのプレーヤーとして)自分がこの先どうなりたいか」というイメージもありませんでした。ただ、中学校の学年が上がってくると高校生や社会人選手との交流も増え、日本代表や国際大会の存在を知るようになりました。そうした上のレベルで戦う選手たちとプレーする中で、「アイスホッケーのトップレベルは、自分にも目指せる世界なのかもしれない」と考えるようになっていったんです。

そして高校1年生のとき、初めてU18カテゴリの日本代表に選ばれ、米国で行われた世界選手権に出場しました。この時に実際に代表としてプレーしたことは、その先のシニア代表、オリンピック出場という大きな夢を明確に思い描く契機になりました。

その夢のためには、また来年、この舞台に戻ってきて活躍しなければならない。高校2年生のシーズンは、U18の世界選手権にもう一度出ることを目標に掲げ、毎日それだけを考えて生活していました。

— しかし、その年は世界選手権前の直前合宿で代表メンバーから外れてしまいます。トップレベルを目指し競技にすべてを注いでいた佐野さんにとっては、決して小さくはない挫折だったのではないでしょうか。

はい。自分の中でも一番努力していた年でしたし、正直なところ当たり前に参加できるものだと思っていましたから。シニアの日本代表に選ばれオリンピックに出るための、いわば「通過点」のように捉えていたのに、こんなに早々とつまずいてしまった。上を目指してきたのに、こんなところで挫折していたら、この先に自分のホッケーの未来はないのではないか。不安ばかりが募りました。

当時の私にとっては、文字通りアイスホッケーがすべてでした。日本代表メンバーに選ばれなかったことで自分のアイデンティティがなくなってしまうような……。その日は泣きながら山手線を一周してしまうくらい、自分の中でさまざまな感情が沸き起こり整理が付かないような状況でした。どうしたらよいのかわからず、とにかく初めて味わう感情でした。

「このチームでプレーしたい」とハーバードのコーチに直談判

— その状況から、いかにして再び前を向くようになったのでしょうか。

複雑な感情が渦巻いていましたが、それと同時に「この経験を無駄にしたくない」という気持ちも強くあったんです。「17歳のときの、あの挫折があったからこそ今がある」と言えるような将来にしたい、と思っていました。

とはいえ、次のステップをどう踏めばいいのか分からない。そんなときに父から「これだけ必死に練習してきて残念な結果になったということは、環境で変えられる可能性があるんじゃない?」と言われたんです。そして母は、YouTubeにあがっていたハーバード大学アイスホッケー部の試合動画を見せてくれました。

それまでは、ハーバード=学力でトップクラスの大学という印象だったのですが、動画をみるとアイスホッケーでも非常にレベルが高い。そのことに大きな衝撃を受けました。また、ハーバードには世界ツートップのアメリカ、カナダの代表を経験している選手も多く所属している。まったく想像もできない世界でしたが、直感的に「自分が代表から落ちたのはきっとここに行くためだったんだ」と思い、受験することを決意しました。

— とはいえ海外の大学は未知の世界、かつトップクラスのチームともなると、その中に入ること自体も容易ではないと思います。そこにはどのような壁があったのでしょうか?

おっしゃるとおり、チームに入ること自体一筋縄ではいきませんでした。アイスホッケーは北米では人気の競技なので、スカウトで選手の枠が埋まり入学後に入部できる可能性は限られます。つまりスカウトしてもらうことがチームに入るための前提条件に近い。

そこで高校2年の1月頃から、ハーバード以外の大学も視野に入れながら、専門のエージェントに協力してもらい海外でのプレーを目指して活動を始めました。各大学のコーチに会いに行ったり、メールでビデオを送ったりを重ねていたのですが、ハーバードだけはメールの返信がなく、コーチにも会えない状況で……。正直諦めかけていた部分もありました。

ただ、高校3年の夏に渡米した際、初めてハーバードのコーチに会うことができて。その時に私は、エージェントも同席した上でコーチと話せればと思い、「練習後に少しお時間いただけませんか?」と聞いたんです。すると「今この場で言いなさい」と言われて。

正直、自分の英語力に自信はなかったものの、このチャンスをのがしたら次はないと思い、リンクの上で「入学できたらこのチームでプレーさせてほしい」と直談判しました。それから帰国後もコーチたちとメールでやり取りを重ね、「部の推薦枠は埋まっているけれど、大学側にプッシュする」と言っていただけたんです。

情熱は、自らの行動で示し「居場所」をつくる

— わずかなチャンスをたぐり寄せ、ハーバード大学のチームに入られたのですね。

はい。ただ入学したはよいものの、そこからが本当に大変でした。異なる文化や言語、環境……すべてがゼロからのスタートで、まるで赤ちゃんに戻ったかのような感覚でした。英語も勉強してきたつもりでしたが、周りの日常会話にさえついていけず、どう振る舞えばよいのかもわかりませんでした。

日本にいるときの私は周りの子とすぐに仲良くなり、日を追うごとにその輪が大きくなっているようなタイプだったのに、アメリカでは自分に自信を持てず、その輪の中にさえいられなかった。

基本的にアイスホッケー部の活動が日々の大部分を占めていて、物理的にひとりになることは少なかったものの、「ただ同じ場にいる」という状態から、「チームメイトとして深い話をできる」ようになるまでには、結局2年くらいはかかったかと思います。

2018年、ハーバード大学でプレーする佐野月咲さん
2018年、ハーバード大学でのプレーの様子

— 海外生活を始め、深く周りと馴染めたと感じられるまでの2年間では、どのような変化があったのでしょうか?

これまで自分は、自ら発言しチームのことを考える姿勢を表すことでチーム内での立場を確立してきました。ですが言葉の壁にぶつかり、周りと上手くコミュニケーションが取れない状況では、その方法でチームメイトとしてリスペクトを得るのは時間がかかりすぎてしまう。

チームや競技への情熱を言葉で表せないのなら、行動や態度で示すしかない。そう思い、2年生になってからは、一番早くリンクに行って準備し、練習後も入念にクールダウンし、自主練習にも毎回参加しました。

練習量がすべてではありませんが、競技に向かう姿勢では誰にも負けない選手になろうと思ったんです。目の前の練習に全力で取り組むことを重ねていく中で、コーチや周りの選手も認めてくれるようになり、徐々にチーム内で「居場所」ができたと感じられるようになりました。

その時期から徐々にコーチとのコミュニケーションも取れるようになり、マンツーマンで指導を受けられる機会も増えて、自分のパフォーマンスやモチベーションも上がっていきましたね。

届くかもしれない世界を、ただの「憧れ」には置いておけない

— ハーバード大学を卒業されてからは、オーストリアのチームを経て、現在はフィンランドのチームでプレーしています。その過程もさまざまな苦労があったと思いますが、自ら道を切り拓けてきたのはなぜだと思われますか?

そうですね、まさに在学中から「プロの選手になりたい」と心に決めていたものの、実際はなかなかチームが決まらない時期も続きました。でも、やっぱり自分が一番情熱を持っていることですし、その目標を変えるというより「そのために何ができるか」だけを考え続けてきました。

私の中では、「手が届くかもしれない」と一度思った世界を諦めたくないという思いがあるんです。もちろん毎回そこへ到達できるわけではありませんが、「前例がないから」「周りにエキスパートがいないから」と諦めるのは、すごくもったいないこと。

最近は「自分の人生の舵は自分で取る」と言っているのですが、本当にやりたいことに対して、一番全力を傾けられるのは自分しかいません。一度目指したい世界を見てしまったら、それをただの「憧れ」には置いておけないと思っています。

2024年、現在所属するフィンランド国内リーグ・KalPaでプレーするプロアイスホッケー選手の佐野月咲さん
2024年、現在所属するフィンランド国内リーグ・KalPaでのプレーの様子

— 今後、佐野さんがアイスホッケー選手として「到達したい世界」とは何でしょうか。

渡米する前の「日本代表になってオリンピックに出たい」という気持ちは、今も変わっていません。

当時高校生だった私にとっては、その夢が自分のすべてで、自分の価値はそれを達成できるか否かで決まると思っていました。でも、チームスポーツである以上、自分がいくら上手くなったからと言って必ずたどり着けるわけではない、と今は感じています。

だからこそ、今は目の前にあることに全力を注ぎ、常にベストな状態にいる自分を重ねてたどり着けたらいいなと思っています。たどり着きたい場所は10年前と変わりませんが、そこに対するマインドセットがまったく違うので、同じ夢を見ている感覚はあまりないですね。

— 最後に、佐野さんのように一歩踏み出したい次世代へのメッセージをいただけますか。

実は、私は日本にいた頃「決められた道しか歩いちゃいけない」と思っていましたし、周りの目を気にして、前例のないことは諦めることも珍しくありませんでした。でも、海外に来てから「チャンスは自分で掴むしかない」という感覚が強くなり、失敗を恐れる気持ちが小さくなっているように感じるんです。

失敗しても、成功しても、挑戦することで得られるものは必ずある。そして、目指していたものが手に入らなくても、そこに向かって動き続けたことでたどり着く場所もきっとある。

もちろん楽しいことばかりではありません。私自身、失敗も多くて不安になったり、落ち込んだりすることを繰り返しています。でも、そういう経験も自分の強みに変えてユニークな道を切り拓けたら、いつの間にか「痛み」もプラスになっていることもあると思うんです。

何があっても「自分だけの道」の一歩だと思って、歩んでいってほしいですね。

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

佐野月咲(さの・るなさ)

東京都出身1998年生まれ。5歳からアイスホッケーを始める。2015年U18日本代表。2017年に筑波大学附属高等学校を卒業した後、同年ハーバード大学に入学。ハーバード大学アイスホッケー部に所属。日本人として初めて全米体育協会1部リーグでプレー。2022年春に卒業後、オーストリアにてプロアイスホッケー選手としてのキャリアをスタート。北米プロリーグを経て、2023年よりフィンランド国内リーグでプレーしている。

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