人的資本経営のヒント~革新に挑む中堅・中小企業事例を『GOOD ACTION AWARD』に学ぶ〜 「人材価値向上への投資」編
人的資本経営の調査・研究を進めるリクルート。今回は、『リクナビNEXT』が主催する、イキイキと働ける職場の共創を実現した企業を表彰する『GOOD ACTION AWARD』を受賞した中小企業の人的資本のベストプラクティスのなかから、ヒントとなる9つの好事例を『GOOD ACTION AWARD』審査委員であり、HR統括編集長、『リクナビNEXT』編集長も務める藤井 薫が3回にわたって解説します。
人的資本経営における3つの投資戦略とは?
藤井:「人的資本経営」に今、注目が集まっていることは皆さんもご存じかと思います。2022年7月に、経済産業省及び金融庁がオブザーブするコンソーシアムが設立され、企業投資の観点でも国内外で情報の開示が求められ始めています。
リクルートでは、「人的資本経営」を「人材を最重要の資本と捉え、全ての人材を活かしていくことで、人的資本の持続的な価値向上につながり、それがひいては経営目的の達成・企業価値の向上につながっていくもの」と定義し、その実践のためには「人材価値の向上」「人材価値の活用」「人材価値の循環」にこそ投資していくべきだと考えています。
今回から3回にわたり、求人情報サイト『リクナビNEXT』が主催するイキイキと働ける職場の共創を実現した企業を表彰する 『GOOD ACTION AWARD』を受賞した取り組みのなかから、上記の3つの視点における先進的な取り組みをご紹介します。その第1弾となる今回は、「人材価値向上への投資」に関する事例です。
「人材価値向上への投資」は、従業員のスキル・能力向上、人材採用、育成に向けたリスキリング(人材のスキル・能力を戦略に合致するように再開発すること)、経営者候補の育成のためにリーダーシップ経験を積ませることなどを指します。
しかし、投資以前に今いる人材の価値を把握できていない企業が多いという問題があります。『人的資本経営の潮流と論点 2022』に際して調査したデータでは、「従業員のスキル・能力の情報把握とデータ化」に課題を持つ企業が54.5%もいました。
人的資本は数ある経営資本のなかで、唯一“心を持つ資本”であるため、うまく推進するには、常に変化するものであるという認識を持つこと、関心を持って見つめることのふたつが欠かせません。単に制度を作って運用するのではなく、心で関わっていって初めて「従業員のスキル・能力向上、人材採用や育成に向けたリスキリング」が可能になると、私たちは考えています。
「人材価値向上への投資」に関する取り組み―事例1
「一人前になるまでの期間」を10年→3年に。専門技術を伝授する育成プログラム
―株式会社KMユナイテッド―
取り組み内容:
「10年で一人前になる」ことが当たり前だった塗装職人の世界で、ベテランが保有するスキル(暗黙知)を分析し、容易にできるもの・そうでないものとに分けて構造化したことで、「未経験者でも3年間で技能習得ができる」独自の育成プログラムを開発。
さらに職人の技を映像教材にし、いつでもどこでも利用できるキャリア支援ツール「技ログ」を開発し、職人の育成に役立てた結果、10年→3年で一人前になれる教育体制ができあがった。
課題:「暗黙知」の多さによる品質の不均一性、育成期間の長さ
実施背景:業務の属人化による担い手不足の打開と、ベテランの長期活躍を支える制度設計の必要性を感じたため
他社で活かせるポイント:
・自他公(自分のため、他者のため、社会のため)が重なるパーパス(目的)を伝えること
・技術の習得を「1.見える 2.分ける 3.できる 4.変わる」の4ステップでとらえ、仕事を分解し、誰でもできるようにしたこと
藤井:職人の世界は、「背中を見て学ぶ」といわれるように暗黙知が多く、ナレッジが形式知化されにくいという傾向がありました。しかし、本取り組みはその固定観念を打ち破った育成プログラムを作成し、暗黙知を形式知化した良い事例です。
私が特に素晴らしいと感じたのは、企業側がベテラン職人さんの持っている熟練スキルに関心を持って向き合ったことです。関心を持って「スキルを上げるための要素は何か」を可視化しにいったからこそ、情報開示とポイントの明確化ができ、未経験の人でも素早くスキルを理解・吸収できるように変化しました。また、技術動画の活用も画期的な方法だと思います。
同社のように、企業が暗黙知の形式知化に取り組む際は、「見える」「分ける」「できる」「変わる」の4ステップを通じて企業が変化していくと私は考えています。
まずは「見える」化。どのような工程や作業があるのかをいったん全て「見える」状態にします。次は「分ける」。文字通り作業工程を細かく分けていくことで、「何ができて、何ができないのか」が明確になります。
次のステップは「できる」。できる・できないが明確になったからこそ、できない部分に集中して技術を習得でき、「できる」ことが増えていきます。最後のステップは「変わる」。できることが増えたことで、さらに仕事のやり方が進化し、それが企業自体の変容につながっていきます。
本取り組みのポイントは、経営陣が従業員に対して“心で関わる意識”を持ちつつ、自他公(あなたのため・他者のため、社会のため)のパーパス(目的)が重なることを伝えることで従業員の皆さんを巻き込んだこと。このことが、暗黙知の形式知化という難しい取り組みを成功に導いた要因だと思います。
「人材価値向上への投資」に関する取り組み―事例2
離職率100%、社員のステップアップを応援する環境づくり
―株式会社MapleSystems―
取り組み内容:
離職後もエンジニアとして活躍してもらうために「離職率100%」を掲げる同社は、エンジニアのスキル習得とステップアップを支援する環境を用意している。また、案件の契約金を開示することで、エンジニア自身が望む収入・身につけたいスキルに応じて案件を選んでもらえる体制も整備。さらにエンジニア同士の出会いの場や、勉強会の場の提供なども実施している。このような取り組みにより、離職率の低下、同社への応募増加などの成果が現れている。
課題:離職率低減の取り組みは会社都合になりがちで社員の幸せにつながりにくいこと
実施背景:エンジニアが働きやすい環境を作ることが、社員、自社の成長につながると考えたため
他社で活かせるポイント:
・「この会社で働けば、社会で活躍できる人材になれる」と自社の魅力を置き直したことで、離職率の低減が図れたこと
・クローズにせず社外との関わりを作ったことで、従業員が自分のキャリアを労働市場からの視点で見直し、考える機会になったこと
藤井:株式会社MapleSystemsは、ITシステム開発や転職サービスを行う企業です。私が素晴らしいと感じたのは、今の雇用・労働市場が取りこぼしている「企業の寿命と個人の寿命が逆転する」という考え方をベースに人材育成をされているということです。
今や企業寿命は約20年程度ですが、人の寿命は100年時代。今後は80代くらいまで働く方が増えることを考えると、その差は約3倍にもなります。そうした状況を冷静に見ると、企業よりも長い寿命を持つ個人が考えるべきは、「中長期のキャリアプラン」であることは明白です。逆に多くの人に応募してもらう企業になるためには、「キャリアに活かせる経験が積める企業だ」と分かってもらう必要があるでしょう。
特にエンジニアは常に成長を求められる職種であるため、スキルアップできない会社には早く見切りをつけ、転職してしまうもの。だからこそ企業側は「社内でどう立ち回るか」というスキルセットではなく、「社外の人とつながって労働市場から見た自分を認識する機会を作る」ことが大事になってきます。
人的資本経営に取り組もうとする時、企業側の人間はつい社内に閉じた視点で人的資本を見てしまいがちです。しかし、人的資本を社会に通底する視点で見てみると、人材の卒業後を考慮した成長機会を渡すことが、逆に人材の定着につながり、仕事にも良い影響が出るという証明になった好事例だと思います。
「人材価値向上への投資」に関する取り組み―事例3
「ほめちぎる教習」で生徒・従業員・学校全てがハッピーに!
―大東自動車株式会社 三重県南部自動車学校―
取り組み内容:
少子化・車離れ・免許離れによって自動車学校のマーケットは縮小。若者の価値観も変化しているなか、ブランディング戦略の一環として「ほめちぎる教習」を実施した。従業員全員が朝礼でのロープレ実践やノウハウ共有などを通じて「ほめる技術」を学び、生徒の良いところを見つける教習を実践している。ほめ方を学ぶ一連の活動のなかで、従業員同士の相互理解が進み、職場には笑顔があふれるようになった。研修資料は「三重県南部自動車学校の虎の巻」として社内限定で共有している。
課題:若者の人口減少・車離れ・免許離れによるマーケット縮小
実施背景:マーケット縮小に課題を感じるなか、社員旅行中の体験でほめる技術を学んでいく価値を感じ、ブランディング戦略の一環として実施した
他社で活かせるポイント:
・従業員の働きやすさ向上ではなく、「顧客体験の向上」という目的に向けて、ほめる研修を実施すること
・ほめることを通じて、相手に関心を持つ重要性を社内に浸透させられること
藤井:こちらは冒頭に申し上げた、「関心」の重要性を分かりやすく証明してくれた事例です。ほめること自体、相手に関心を持っていなければできません。今はVUCAの時代といわれていますが、こうした複雑で不確実な時代は誰も正解を知らないので、失敗しやすいですよね。
そんな時代に、失敗する度に怒られるコミュニケーションだけしかない企業にいたらどう思うでしょうか? メンタルも結果も、マイナス方向に進むことは容易に想像できます。今までは達成する人(アチーバー)を称賛する社会でしたが、これからの時代は結果から学ぶ人(ラーナー)を評価することが重要になってきます。
トライ&エラーから、トライ&エラー&ラーン(「売れた・売れないという結果の原因には何があるのか」の分析)が欠かせなくなってくるということです。これは、社会が大きく変わるチャンスだと思っています。
ただ、その際に忘れてはならない視点が、「顧客体験」です。人的資本というと会社と働く人というふたつの視点に限定されてしまいがちですが、そこには3つ目の視点として、「顧客体験」があります。
本来は顧客・社会と個人の間に企業がなくても、個人は直接顧客や社会に自分の才能を提供できるけれども、今はたまたま顧客と個人の間に企業が入っているだけ。つまり、個人の才能を顧客価値に結節させられるような機能を企業が果たすという構造で理解しておく必要があるかと思います。同社の事例も、企業がうまく間に入り、顧客体験を向上させたことで個人・企業・顧客がつながり、良い結果が出たのだと思いますね。
一人ひとりが「かけがえのない存在」。その意識が人材価値の向上につながっていく
藤井:今回ご紹介した3企業の共通点は、今いる社員の一人ひとりを「かけがえのない存在」として関心を持ったことです。できる人・できない人という線引きではなく、「Aは得意だけどBは苦手」「Bは苦手だけれど、Cの仕事は苦なくできる」などの部分的な能力の濃淡をしっかり見極め、誰にでもかけがえのない才能が宿っている前提で接するということです。
人材価値の向上というと、すぐにスキル開発や育成の話になってしまいがちですが、一番重要なのは「今この人がどんな持ち味やスキルを持っていて、お客様へ価値提供するにはこういった能力開発が必要になるのか」という、ありたい姿やスキルセットと現状の両方に関心を持って見つめることだと思っています。
これが抜けてしまうと、いくらスキル開発や育成をしても、ギャップが埋まりません。まずはその姿勢を持って、人材一人ひとりと向き合うことが重要です。従来のマス型研修では皆が持つ才能を活かしきれません。今こそ、テーラーメイドのような一人ひとりに合った育成が必要です。そして、機動力のある中堅・中小企業こそ、スピード感を持った体制変更のチャンスがあると私は思っています。
今回ご紹介した事例を基に、ぜひ社内にいる人材のスキルセット、顧客体験を視点に置いたスキルセットを両方考えてみて、どう変えていくべきか議論いただけたら大変嬉しく思います。
プロフィール/敬称略
※プロフィールは取材当時のものです
- 藤井 薫(ふじい・かおる)
- 株式会社リクルート HR統括編集長
HR統括編集長。『リクナビNEXT』編集長。1988年リクルート入社以来、人材事業に従事。『TECH B-ing』編集長、『Tech総研』編集長、『アントレ』編集長、リクルートワークス研究所Works編集部、リクルート経営コンピタンス研究所を歴任。デジタルハリウッド大学客員教授、情報経営イノベーション専門職大学客員教授、千葉大学客員教員。厚生労働省・採用関連調査研究会の委員歴任。著書に『働く喜び 未来のかたち』(言視舎)
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【リクルートの人的資本経営】
- 今、世界が注目する『人的資本経営』の実現モデルとは?“働く人”こそ企業の競争優位性を生み出す時代を見据えて(コーポレートブログ)
- リクルート、「人的資本経営コンソーシアム」に発起人として参画(プレスリリース)
- 「人的資本経営」の実現に向けた課題とは? ~学習院大学教授 守島基博氏と考える“潮流と未来”(コーポレートブログ)
- レポート「人的資本経営の潮流と論点 2022」(プレスリリース)
【GOOD ACTION AWARD】