プロ野球界の伝説 クロマティが語る「成果だけでなく、学ぶ姿勢で世界を生き抜く」
現役引退から約30年。今も日本人の心に刻まれる伝説の助っ人は、逆境を乗り越えようとする日本へ期待を寄せる
1980年代の日本プロ野球で圧倒的な成績を残し、史上最強の"助っ人外国人"と呼ばれた男、ウォーレン・クロマティ。読売ジャイアンツの中心選手としての人気ぶりは単なる"助っ人"の域を超え、野球ファンのみならず日本中にその名を轟かせた。
現役を退いてからも様々な活動を通して日本との関わりを続け、日米のかけはしとなっているクロマティ氏。初来日から36年たったいまも日米をつなぐ彼に話を伺い、日本で活躍するために大切にしてきた働き方や姿勢を紐解きながら、グローバル人材に必要なスタンス・視点に迫った。
自分の能力を誇示する前に、良きチームメイトであれ
米国フロリダ生まれのクロマティ氏にとって、海外で活動したのは日本が初めてではない。来日前には、カナダを本拠地とする「モントリオール・エクスポズ」でもプレイをしてきた。そんな彼にとっても、海を隔てた日本に渡ることは人生を変える大きな決断だった。
「読売ジャイアンツへ入団した当時、私は31歳。すでにメジャーリーガーとして確立されていた状況で、今までと全く違う環境に飛び込むのは簡単に決断できるものではありませんでした。それでも日本行きを決めた一番の理由は、ジャイアンツが私を高く評価してくれたことです。また、王さん(王貞治さん)の存在がとても大きかったです。選手として有名だった王さんが監督を務めることに、チームとしてのポテンシャルを感じましたし、自分も彼のチームの一員になりたいと思えたんです」
84年から7シーズン、ジャイアンツの主力選手として活躍。いわゆる"助っ人外国人"として来日する選手のほとんどが2~3シーズンで帰国するなかで、クロマティ氏は選手人生の多くを母国から遠く離れた日本に捧げた。しかも、当時の読売ジャイアンツは、他チームとは一線を画す人気球団。その中でも、クロマティ氏の活躍は、めざましいものがあった。ただ、彼がその中核選手として長きにわたり活躍できたのは戦績だけが要因ではない。
「日本で長くプレイできた要因の85%は、もちろん選手としてのパフォーマンスが認められたからでしょう。ただ、私は残りの15%がとても重要だったと思いますね。それは、日本の選手たちにとっての良きチームメイトであろうと努力したこと。日本選手たちの振る舞いを注意深く観察して、真似して、チームに溶け込もうとしました。たとえば自分を大きく見せて強さを誇示するのではなく、謙虚な姿勢を大切にすることも、彼らから学んだことの一つです。グラウンドでの成績だけでなく、一人の人間としてプレイ以外の部分でチームに溶け込む姿勢も見てほしかったんです」
これはスポーツだけではなく、どの世界でも必要なことだとクロマティ氏は語る。新しい環境で認められるには、自分の能力を見せつける前に、その環境で大切にされている価値観やマナーに適応することが必要だ。さらに、それらを"学ぶ姿勢"を見せることで異文化への敬意も伝わるそうだ。
「来日した当初は、口よりも目や耳を良く使っていました。細かい話ですが、たとえば、靴を脱いで家に上がるとか、箸の使い方、しゃぶしゃぶや納豆の食べ方など、日本の人たちの何気ない行動や仕草を観察して、真似して自分でやってみることで、マナーが尊ばれる文化を理解したんですよ。もし海外で活動するのなら、やはりその国の価値観には敏感でなければならない。日本でも、たまに"ガイジンスタイル"を通す外国人がいますが、私はそういう人を見かけると頭にきてしまいます。もちろん彼らは単に日本独特の文化やルールを知らないだけかもしれません。でも、知ろうとしないのなら、それは違うと思うんです」
コミュニケーションの扉をどうやって開いてもらうか
1990年のシーズンをもってジャイアンツを退団したクロマティ氏。ただ、アメリカに帰国後も、野球やエンターテイメントの活動で何度も来日。東北の震災復興支援では、被災地の子どもたちに向けた野球教室にも参加するなど、いまも日本でも精力的に活動を続けている。
「私が日本で活動する根本にあるのは、日本への愛に他なりません。現役時代の恩返しをしたいし、心はいつまでも繋がっていたい。昔、私を応援してくれた子どもたちは今ではもう大人ですが、彼らの子どもたちのことも(野球教室などで)支援していきたいですね。そうした取り組みを通して、私が日本で活動してきた経験を後世にも繋がるような"レガシー"として遺していきたいんです」
クロマティ氏の様々な活動が実現できているのは、本人の想いだけでなく、日本のファンから愛され続けていることも要因に違いない。退団から30年近くが経つ今でも、日本の街を歩けば握手や写真を求められ、中には車を停めてまで声を掛けてくる人もいるという。
「今でも多くのみなさんが覚えていてくれるのは、私の選手としての記録(成績)というより、キャラクターが心に刻まれているからだと思いますね。"クロマティなら気軽に声をかけても明るく返してくれるだろう"と、フランクなキャラクターだと思われているのも嬉しいことです」
相手に親しみやすさを感じてもらうために言語はあまり重要じゃないとクロマティ氏は言う。ジェスチャーだっていいし、相手の母国語が話せなくても何か一つ知っている単語を口に出すだけでもいいので、コミュニケーションしたい気持ちを伝えること。彼はこのやり方を「コミュニケーションのドアを開けてもらうための手がかり探し」と表現する。
はじめは警戒して閉じられている扉を、ほんの少しでも開いてもらうことが重要。そのためのきっかけを探す力は、まさしくグローバルに活躍する人物には求められるスキルなのだろう。
違いを受け入れつつも、自分らしさを見失ってはいけない
2018年には、世界最大の歴史エンターテイメントブランド「ヒストリーチャンネル」と契約を結び、日本のPR特派員としても活動した。日本を世界へ発信する立場も務めたクロマティ氏からみた近年の日本は、少し元気がないと残念がる。
「メイドインジャパンこそナンバーワンだと言われていた時代が終わりを迎え、ちょっと自信を失っているように感じられます。まるで亀が首を引っ込めるように、失敗を恐れて安全な場所に身を潜めているかのよう。でも、私は日本人が持つパワフルさやポテンシャルを知っています。創造性があり、イノベーションを生み出してきたからこそ戦後の日本はあれだけ元気になれた。一人ひとりがもっと自分の力に自信を持ち、アグレッシブに世界へ出て挑戦していかれることを願っています」
私のミッションは、日本をもっと元気にすること。
クロマティ氏は自身の活動意義をこう表す。そして、元気になって再び世界で活躍するためにも、様々な立場や考えを持つ人と交流をするべきだとアドバイスをしてくれた。
「もっと若者のフレッシュな声に耳を傾けたり、組織やチームのメインストリームではない少数意見を受け止めたりするようにしましょう。グローバルに活動するうえでは、老若男女が異なる考えや価値観を持ち寄ってディスカッションをする場面が欠かせませんから。また、自分が気づいていないアイデアに触れる意味でも、多様な声を聞くことには価値があります」
多様性=ダイバーシティが国際社会では大前提。確かにこの視点もグローバル人材に不可欠なことだろう。また、多様性を尊重するからこそ自分のアイデンティティに注目してほしいとも付け加えてくれた。
「たとえばあなたがアメリカで働くとしましょう。その時、アメリカのやり方や価値観を学んで受容する必要はありますが、あなた自身が"アメリカ化"する必要はないんです。グローバル化とは同質化することではない。大切なのは、異なる考えの人たちが一つのチームとして集まったときに"One Heartbeat"を実現すること。立場やバックグラウンドが違うことを認め合い、それぞれの個性を活かしながらも同じ鼓動を刻んで物事を進めていくことです」
クロマティ氏は、日本でも少しずつではあるが、ダイバーシティを受容する文化が醸成されはじめていると感じているという。加えて、2020年の東京オリンピック・パラリンピックが開催されることがこの変化を後押しすると期待しているそうだ。
なぜなら、世界はイベントの盛り上がり以上に、「大会を契機にその後の日本で何が起きるか」に注目しているから。1964年の東京大会が様々な革新をもたらしたように、終わった後の日本をどう世界に発信できるかが楽しみだという。
「どちらかと言えば、今の日本は逆境に立たされているように見えます。でも、私自身も振り返ってみればジャイアンツ時代に困難に直面したことは何度もありました。それを乗り越えてきたから今の私がいると思っていますし、逆境を糧にできる人こそ世界で活躍できるはず。そう思うからこそ、今後は私が選手生活の中でどう逆境を乗り越えてきたか、その経験をお伝えすることにもチャレンジしていきたいと思っています」
プロフィール/敬称略
※プロフィールは取材当時のものです
- ウォーレン・クロマティ
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1953年、米国フロリダ州マイアミビーチ生まれ。メジャーリーグベースボールのモントリオール・エクスポズで9シーズンをプレイ。その後、84年に読売ジャイアンツへ移籍し日本の野球界へ。7年間通算で打率3割2分1厘、171本塁打、558打点と圧倒的な成績を残す。91年の引退後は野球を中心に様々な分野で活動し、日米のかけはしとなる。2018年には世界最大の歴史エンターテイメントブランド「ヒストリーチャンネル」の日本特派員として活動。現在は東日本大震災の復興支援を目的とした「MLB Cup」でのMLB Japanの活動や、自身の経験を伝えること、後進の指導などを通して、日本の野球界への恩返しに力を注いでいる。